秋の章

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秋の黄昏の風景
 鮭川と最上川の交叉する地点に、戸数が十七戸の集落、金打坊(かねうちぼう)がある。秋ともなれば、あたりは一面に、稲穂を垂らした黄色い稔りの海になる。かつては川辺にタイシ小屋があり、渡し舟を使って集落に渡った。いまは橋が架けられ、外の世界とも車で行き来ができるようになった。その鮭川に架かる橋から眺める、黄昏の風景は息を呑むほどに美しい。川のおもてを茜色に染めて、鮮やかな秋の夕陽が沈んでゆく。そのかたわらに、暮れなずむ闇に包まれてゆく村がある。
 橋のない時代は遠ざかる。女たちはみな、舟に揺られて金打坊に嫁いできた。まるで川に浮かぶ中洲か、小島のような村だった。どこの家にも笹舟があった。最上川を小鵜飼舟が行き交った時代も、けっして遠い昔の話ではない。帆掛け舟は昭和二十年代になって、ようやく姿を消した。運のいい子どもは、小鵜飼舟に乗せてもらった。そんな思い出が、昭和生まれの老人たちの口から語られる。
 近世には、金打坊は舟運(しゅううん)で栄えた。鮭川の上流から、木流しで送られてくる木材を改める土場(どば)があり、年貢米を検査する蔵宿も何軒かあった。川関所のひとつだったのである。金打坊の家々は、先祖の多くがそうした舟運にかかわって定着したらしい。大きな農家が多く、むしろ裕福な村だった。金打坊の米はうまい、と誰もが自慢する。そして、ここにはやはり、川の暮らしが豊かに残されている。

 
伝統的なアユ漁
 夏場は田んぼ仕事のかたわら、川漁をして暮らす人がいる。川が好きでたまらない人たちである。春はハヤをハエナワ漁で捕る。コイ・カワザイ・マスは柳で瀬止めして、長い張り網を仕掛けて捕る。カニ・ナマズ・ドジョウもかかる。七月に入れば、アユ漁が解禁になる。漁期は八月初旬から十月末までである。やがて秋が来ると、サケが遡上してくる。餌を入れた金網のドウを、夜間に川に沈めて、川ガニも捕る。新庄から下流の、最上川流域だけで行なわれてきた、独特の漁法だ、という。近頃は、ヤツメウナギはほとんど捕れなくなった。
 戸沢村の鮭川沿いでは、アユ止めを使った昔ながらの漁をしている。川に杉の杭を打ち込んで、柳を引っ掛け、流れを堰き止めて、アユ止めを作る。その手前で回遊しているアユを狙って、川岸から刺し網を投げる。投網(とあみ)とは異なり、手の使いようで投げるもので、熟練の技が必要だ、という。一度に二十キロ、三十キロも捕れることがある。昼間はそうして投げ網をするが、夜や水が濁っているときには、止めに張り網をかける。
 捕れたアユは自家消費のほかに、電話注文や買い出しの客に売っている。以前は、得意先の旅館や料亭が決まっていた。女たちがアユ売りに歩いた時代もあった。たくさん捕れたアユは、ハラを取り、大方焼いてから、藁で編んで縁側に干しておく。保存食になり、ウドンやソバのつゆを取るダシにされる。アユで生活させてもらったな、そう話す人もいる。


サケ漁のいまと昔
 金打坊のサケ漁は、株を持つ五軒の家が組を作ってやっている。経費は公平に分担し、捕れたサケは目方で分ける。サケ漁は九月の末に解禁されるが、盛りは十月二十日頃である。昔はノデ(野堤)を作った。川の流れを、杉の杭とすだれ状の柳で作った止めでふさぐ。遡上してきたサケが戻ろうとして、仕掛けられたモンペ網にかかる。出稼ぎが増え、人手が足りなくなってから、ノデはやめた。いまは、カカドといい、止めを数カ所に作り、張り網をかけて捕る。カカドはひとつの瀬で七カ所と決められている。
 数年前には、戸沢村全体では、六百匹あまりのサケが捕れた。サケは宿の家に集め、本数や目方を調べてから、仲間五人で公平に分ける。宿は年ごとに交替する。金打坊あたりのサケは、身が真っ赤で、煮ると脂が一面に浮く。昔は高く売れたが、サケを食べる人が減って売れなくなった。いまはほとんどが自家消費か、知り合いへの贈答用に使う。
 最初に網をかけて捕れた日には、初捕りと称して祝う。捕れたサケの尾を切って、木戸に張っておくのは、昔からの慣わしである。それを見ると、何本捕れたか、すぐにわかる。五十本、百本と捕れると、立川町清川の稲荷神社にお参りをした。庄内の海辺や、月光川沿いに見られるような、サケの千本供養塔を立てる風習は、ここにはない。
 
手作りのイベント
 十年ほど前のことである。九月、アユのおいしい季節を選んで、川祭りのイベントが行なわれた。橋の下の河川敷を川祭りの広場にした。天然アユの塩焼きや田楽を並べた。カラオケ大会、隣り村の津谷囃子や神楽、魚のつかみ捕り大会、「ミスせせらぎの女王」コンテスト、笹舟レースなど、盛りだくさんのイベントが用意された。笹舟レースがもっとも人気を呼んだ。見る祭りから、参加する祭りへの転換であった。訪れた客は千人近く、マス・メディアにも取り上げられ、たいへんな盛況だった。
 百人足らずの小さな村が、精一杯の趣向を凝らして演出した、ささやかなイベントであった。舟・弁慶・サケとカニなど、金打坊の象徴となりそうなものをデザインして、Tシャツまで作った。金打坊という地名にかかわる伝承にちなんで、弁慶は選ばれた。ある言い伝えによれば、弁慶が羽黒山で鐘を打ったとき、鐘つき棒がここまで飛んできて落ちた、その鐘つき棒が金打坊と変わり、いつしか地名になった、という。ほかにも、地名の由来を語る伝承はあるが、とりあえず弁慶を選んだらしい。
 ともあれ、山の幸と川の幸、古い歴史と文化、そして恵まれた自然を大切にしながら、暮らしを支える農業を育て、次代の子どもたちに伝えたい、そんな熱い村作りへの思いが託された、すべてが手作りの祭りであった。村中総出で、それぞれに分担を決め、一カ月も前から準備をした、という。しかし、残念ながら、裏方として働いた女衆に背を向けられることで、祭りは数年で途絶えてしまう。いずれ、また川祭りを再開したい、と村の若手たちはひそかに考えている。
  世代交代が進んで、金打坊の将来はすでに、若い世代に託されつつある。「ああ! ゆかい田」と名付け、遊び心をこめて、昔の農法の再現なども試みている。遠い都会から、稲刈りを手伝いにやって来る娘たちの姿も見られる。民宿の経営を夢想する者もいる。辺鄙なほうが、逆に受けることだってある。訪れた客は渡し舟で迎えればいい。川の暮らしを体験してもらう。冬にはスキーもできる。土地にあるものを工夫して活用すれば、新しい村の風景が開けてくるかもしれない。村は静かな活気を秘めて、いま動きはじめている。


(1)川の文化について
 川をめぐる風景は、近代の訪れとともに、大きな変容を遂げてきた。近世には、川や海こそが交通の大動脈であった。最上川はまさに、山形の中心を貫き流れるハイウェイのようなものだった。その最上川舟運がもたらす富によって、大きな繁栄を得ていた河岸場(かしば)や川関所が、いくつも存在した。立川町清川、大蔵村清水、大石田町大石田、河北町谷地などが、近世に栄えた代表的な河岸場の街である。いまは往時の繁栄は、北前船で京都から運ばれてきたヒナ人形などで、わずかに偲ぶことができるにすぎない。舟運の衰退とともに、川をめぐる景観は寂しいものになった。  
 近年、水辺の景観にたいする関心が高まりつつある。しかし、歴史から切り離された景観作りが、うまく行くはずはない。風景が宿している歴史や文化を掘り起こすことなしには、たとえば、新たな川辺の景観を立ち上げることはできない。それぞれの土地に埋もれた、川にかかわる歴史や文化を再発見してゆく作業のなかに、これからの時代に必要とされる、人と川との関係をめぐる新しいイメージは、しだいに浮かび上がってくるはずだ。  
 その意味では、金打坊のいくつかの実験的な試みは、注目に値するものだ。川祭りという、村中総出の手作りのイベントを行ないながら、村に生きるとは何か、という深刻な問いかけを、豊かな遊び心とともに投げかけている。川とかかわる暮らし、その分厚い歴史を見つめなおすことから、それを地域資源として再発見し、新しい村のイメージに繋げようとしている。地名伝説もまた、風景に彩りを与える地域資源であることに、注意を促しておきたい。これまでとは大きく異なった、やわらかい発想が随所に生かされている。
 
(2)川漁について
 川をめぐる風景のなかで、もうひとつ忘れてならないのは、川漁である。多くは農業のかたわら行なわれる、副業的な色合いの濃いものであったが、川は疑いもなく、暮らしの舞台の一部であった。白鷹町下山の「あゆ茶屋」などは、伝統的なアユのヤナ場をうまく現代風に再現して、一定の成功を収めた例であろうか。いまも川漁に従う人々がいて、そのヤナ場作りや川漁の技術を進んで提供した経緯があり、それが成功をもたらす条件となった、と思われる。  
 川にかかわる暮らしや生業を、新しい川辺の景観作りに繋げてゆくためには、いま可能なかぎりの聞き書き調査をしておく必要がある。たとえば、伝統的な川漁はしだいに失われつつあり、その技術の伝承者もまた、姿を消そうとしている。川の文化はいま、確実に消滅の危機に瀕している。しかし、その消滅をノスタルジックに惜しむのではなく、将来に生かされるべき地域資源として、いま・ここで再発見してゆくことが求められている。大胆な発想の転換が必要である。伝統的な文化は守られるために、そこに存在するわけではない。伝統とはつねに、それぞれの時代のなかで創造されるものであった。伝統的な文化を、また、それを伝承する人々を、将来に向けての地域資源として生かす道こそが探られねばならない。地域の時代への扉は、それぞれの地域の内側に芽生える、みずからを知ることへの欲望とともに押し開かれるはずだ。