ホタルの舞う夜に 初夏の訪れとともに、牛房野はほんのつかの間、ホタルの里となる。数も知れぬホタルの群れが、闇を映してゆらゆら揺れる川面(かわも)に、土手の草はらに、田んぼに、青白い光を振りまきながら、ひそやかに舞う。 牛房野川にホタルが戻ってきたのは、昭和六十年代のはじめのことだった。十年ほど前に行なわれた河川改修工事のあと、牛房野川は魚や虫の棲まない川に変わっていた。川辺のホタルも、まったく姿を消した。その川にホタルが戻りはじめたことに、幾人かの村の人が気付いた。それから、農薬の空中散布をやめて数年後、ホタルの乱舞する姿が見られるようになった、という。 七夕の頃になると、このホタルの里には、思いがけずたくさんの人が訪れる。しだいに濃くなってゆく闇のなかに、人影がいくつも、まるで影絵芝居のように、ゆったりと動いている。息をひそめて待つ人々の前に、やがて、華麗にして儚(はかな)いホタルの舞いが幕を開ける。静かな歓声が、どこからか聴こえてくる。火を垂らしながら舞う、小さな生き物たちが与えてくれる、ささやかな夜の宴である。そのとき、人間たちの傲慢さは癒され、なだめられているのかもしれない。
カノ畑でカブを作る かつて、牛房野はカノの村であった。カノは焼畑のことで、最上や村山あたりでは、この名称がごく一般的に使われている。逆に、焼畑というと、首を傾(かし)げられることがある。牛房野にはいまも、そのカノを続けている人がいる。昔は、一年目にソバやカブ、二年目にアズキ、三年目にアワを植え、その後は桑畑にした。養蚕も盛んだった。東北の日本海側によく見られた焼畑の形である。それがいつしか、カブ作りだけに限られるようになり、さらに、カノ畑そのものが行なわれなくなってゆく。 カノカブ作りの一年は、六月初旬のカブ種取りにはじまる。雪が解けた頃に、黄色い花が咲くと、種を取る。それを乾燥させる。胡麻より小さな真っ黒の種だ。牛房野カブは、とても古いカブの在来品種として知られる。その地種としての純粋さを保つために、はるか遠い時代から、種はかならず山で取ってきた。里では大根などと交配するからだ。 七月の末頃、村から五、六キロも奥に入った山の斜面の草を刈り、木を伐る。カノ刈りという。十日間ほどかけて乾燥させると、カノ焼きをする。延焼を防ぐために、周囲の草を起こし土を露出させ、火防(かぼう)線を作っておく。火入れをして、上手からじっくり焼きながら降りてくる。種まきは翌朝の仕事になる。カブの種を口に含んで、舌のうえに乗せながら、吹き散らすように蒔いてゆく。それから、鍬でうなう(起こす)。その後、オロヌキ(間引き)を三回ほどして、大きく育てる。収穫のカブツミは、初雪が来る前の十一月初めに行なう。 カノ畑の場合、灰が肥料になるので、以前はまったく使わなかった。。じっくり焼いたカノ畑には虫が付かないし、雑草も少ない。カノはたいてい、山裾の葉っぱが堆積している肥えた土地を選んで行なう。カノはいわば、肥料や農薬とは無縁な、自然により近い農耕なのである。東南アジアの焼畑に関して、森林を焼き尽くす、自然破壊の元凶のように報道されることがあるが、あれは本来の焼畑ではない。プランテーション経営のために、森を焼いているにすぎない。カノはむしろ、自然との共存型の農耕と言っていい。
(2)カノ畑について いまも焼畑が生業の一部として行なわれている地域は、すでに日本全国を見渡しても、ほんのわずかしか残っていない。焼畑の火入れの光景などは、見る者に圧倒的な驚きと感動を与える。その、どこか原始的な雰囲気から、遠く失われた風景が舞い戻ってきたかのような、ある種ノスタルジックな感動を呼び覚ますのである。それはしかも、稲作以前を宿した、東北の基層文化の一部をなすものであり、その復権はたんなる郷愁を越えて、日本文化の大きな読み直しの手掛かりを与えてくれるはずである。 山形県内には、ほかにも一霞をはじめとする温海町のいくつかの地区など、焼畑を生業の一部として受け継いでいる地区が、かなりの数見られる。これはまさに、山形の原風景を彩る文化のひとつであるが、ほとんど注目されていないし、知られてもいない。「いまでも焼畑をやっている所があるんですか」と、東京の学者たちが驚きの声を上げるほどだ。焼畑もまた、大切な地域資源として活用される必要がある。そのためには、県内全域で調査を行なって、まず現状をきちんと把握しなければならない。そのうえで、たとえば「山形の焼畑」にかかわる詳細なマップを作成し、それを手掛かりとして、新しい山形の風景作りを行なうことができる。