夏の章

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ホタルの舞う夜に
 初夏の訪れとともに、牛房野はほんのつかの間、ホタルの里となる。数も知れぬホタルの群れが、闇を映してゆらゆら揺れる川面(かわも)に、土手の草はらに、田んぼに、青白い光を振りまきながら、ひそやかに舞う。
 牛房野川にホタルが戻ってきたのは、昭和六十年代のはじめのことだった。十年ほど前に行なわれた河川改修工事のあと、牛房野川は魚や虫の棲まない川に変わっていた。川辺のホタルも、まったく姿を消した。その川にホタルが戻りはじめたことに、幾人かの村の人が気付いた。それから、農薬の空中散布をやめて数年後、ホタルの乱舞する姿が見られるようになった、という。
 七夕の頃になると、このホタルの里には、思いがけずたくさんの人が訪れる。しだいに濃くなってゆく闇のなかに、人影がいくつも、まるで影絵芝居のように、ゆったりと動いている。息をひそめて待つ人々の前に、やがて、華麗にして儚(はかな)いホタルの舞いが幕を開ける。静かな歓声が、どこからか聴こえてくる。火を垂らしながら舞う、小さな生き物たちが与えてくれる、ささやかな夜の宴である。そのとき、人間たちの傲慢さは癒され、なだめられているのかもしれない。

 
消えてゆく山村の面影
 牛房野は尾花沢の市街から、車でほんの十分足らずの、川沿いに開けた山あいの村である。その村が長いあいだ、僻地のひとつに数えられてきたのは、冬場の交通が深い雪のためになかば遮断されてきたからだ。新しい道が切られた。除雪も行き届くようになった。いま、牛房野からは急速に、ひなびた山村の面影が消えようとしている。
 縄文時代の遺物が数多く発掘されている、という。この地では、はるか数千年の昔から、広大なブナの森に抱かれながら、狩猟や採集、それに焼畑などを組み合わせた暮らしが、季節のめぐりのなかに展開されてきたのである。牛房野は明治の頃まで、ひたすら山とともに生きる村であった。自由に山稼ぎに入ることのできる入会(いりあい)の山が、周辺には豊かに広がっていた。近代の訪れのなかで、その山々はいつしか、国有林として囲い込まれてゆく。やがて、奪われた山を取り返すための運動が起こる。
 牛房野では、戦前・戦後を通じて、炭焼きが大切ななりわいとされてきた。若い頃は炭を焼いたよ、面白かったな、そう、語る老人たちは多い。山中に小屋をかけて、石の窯を作り、白炭を焼いた。六月頃から、みぞれが降る十一月なかば頃までが、炭焼きの季節だった、という。夏場の仕事であった。盛んだった炭焼きも、やがて昭和四十年代になると、しだいに姿を消してゆく。石油やガスの時代がやって来たのだ。もはや、炭焼きで暮らしを立てることは不可能となる。


カノ畑でカブを作る
 かつて、牛房野はカノの村であった。カノは焼畑のことで、最上や村山あたりでは、この名称がごく一般的に使われている。逆に、焼畑というと、首を傾(かし)げられることがある。牛房野にはいまも、そのカノを続けている人がいる。昔は、一年目にソバやカブ、二年目にアズキ、三年目にアワを植え、その後は桑畑にした。養蚕も盛んだった。東北の日本海側によく見られた焼畑の形である。それがいつしか、カブ作りだけに限られるようになり、さらに、カノ畑そのものが行なわれなくなってゆく。
 カノカブ作りの一年は、六月初旬のカブ種取りにはじまる。雪が解けた頃に、黄色い花が咲くと、種を取る。それを乾燥させる。胡麻より小さな真っ黒の種だ。牛房野カブは、とても古いカブの在来品種として知られる。その地種としての純粋さを保つために、はるか遠い時代から、種はかならず山で取ってきた。里では大根などと交配するからだ。
 七月の末頃、村から五、六キロも奥に入った山の斜面の草を刈り、木を伐る。カノ刈りという。十日間ほどかけて乾燥させると、カノ焼きをする。延焼を防ぐために、周囲の草を起こし土を露出させ、火防(かぼう)線を作っておく。火入れをして、上手からじっくり焼きながら降りてくる。種まきは翌朝の仕事になる。カブの種を口に含んで、舌のうえに乗せながら、吹き散らすように蒔いてゆく。それから、鍬でうなう(起こす)。その後、オロヌキ(間引き)を三回ほどして、大きく育てる。収穫のカブツミは、初雪が来る前の十一月初めに行なう。
 カノ畑の場合、灰が肥料になるので、以前はまったく使わなかった。。じっくり焼いたカノ畑には虫が付かないし、雑草も少ない。カノはたいてい、山裾の葉っぱが堆積している肥えた土地を選んで行なう。カノはいわば、肥料や農薬とは無縁な、自然により近い農耕なのである。東南アジアの焼畑に関して、森林を焼き尽くす、自然破壊の元凶のように報道されることがあるが、あれは本来の焼畑ではない。プランテーション経営のために、森を焼いているにすぎない。カノはむしろ、自然との共存型の農耕と言っていい。

 
冬越しのカブ漬け
 最近では、カブはカノ畑ではなく、スイカの後作に村内の畑で作られている。成長は早いが、大根のようにやわらかい。難儀して育つカノカブは、硬くてうまい、そう、誰もが口をそろえる。牛房野カブは葉も首の部分も赤紫である。カノカブはいま、ほとんど八百屋の店頭には並ばない。
 カブ漬けは昔から、冬越しのための大切な食料とされてきた。冬はカブと汁で過ごしたものだ、と老人たちはいう。たんなる副食ではない、むしろ主食に近い扱いだった。十二月になると、どこの家でも主婦が大きな樽にカブを漬け込む姿が見られた。それぞれに味も色も異なる、たとえば、家ごとに主婦が演出する食文化のひとつであった。最近は赤みを加えるために、砂糖と酢を使う家が多くなったが、本来は、味噌の汁と塩だけで漬けるものだった。ほかにも、ワサビのような味の出るフスベ漬けなど、幾種類かの漬け方があった。子どもらのオヤツ代わりにされた、ともいう。
 カブは古い時代に、北アジアから渡ってきた野菜である。焼畑カブは東日本にしか見られない。いま、スーパーの店頭に並ぶカブは常畑で作られる、まるで品種の異なる白カブである。牛房野カブはたしかに、小さな野菜である。それはしかし、はるか遠い時代から、この地に暮らす人々が丹精こめて受け継いできた、食の文化の結晶である。こうした野菜の在来品種は、まさに貴重な文化財と言ってもいい。かつて、牛房野にはカラミ大根という、やはりカノ畑で作る首の赤い大根もあった。その特産品も姿を消した。伝統的な食文化をきちんと再評価すべき時代が、いま、訪れているのかもしれない。


(1)ホタルの里について
 近年、川にホタルが戻ってきている。初夏の風物詩として復活しつつある。新聞やテレビなどのマス・メディアが散発的に取り上げているようだが、これを山形の原風景のひとつとして、大きな演出の網をかぶせてやる必要がある。たとえば、県内全域を調査して、「ホタルの里を訪ねて」といったイラスト・マップを作成することはできないだろうか。ホタルの舞う水辺の風景は、現代が切実に求めている、人と自然との共存型の社会を象徴的に映し出すものである。それを地域資源として積極的に演出し、活用してゆくことは、確実に山形のイメージ・アップに繋がるはずである。控えめなものではあれ、やわらかく観光に繋げてゆく方法も模索されねばならない。
 

(2)カノ畑について
 
いまも焼畑が生業の一部として行なわれている地域は、すでに日本全国を見渡しても、ほんのわずかしか残っていない。焼畑の火入れの光景などは、見る者に圧倒的な驚きと感動を与える。その、どこか原始的な雰囲気から、遠く失われた風景が舞い戻ってきたかのような、ある種ノスタルジックな感動を呼び覚ますのである。それはしかも、稲作以前を宿した、東北の基層文化の一部をなすものであり、その復権はたんなる郷愁を越えて、日本文化の大きな読み直しの手掛かりを与えてくれるはずである。  
 山形県内には、ほかにも一霞をはじめとする温海町のいくつかの地区など、焼畑を生業の一部として受け継いでいる地区が、かなりの数見られる。これはまさに、山形の原風景を彩る文化のひとつであるが、ほとんど注目されていないし、知られてもいない。「いまでも焼畑をやっている所があるんですか」と、東京の学者たちが驚きの声を上げるほどだ。焼畑もまた、大切な地域資源として活用される必要がある。そのためには、県内全域で調査を行なって、まず現状をきちんと把握しなければならない。そのうえで、たとえば「山形の焼畑」にかかわる詳細なマップを作成し、それを手掛かりとして、新しい山形の風景作りを行なうことができる。

 
(3)カノカブについて
 かつて、山形県内には牛房野カブや、温海の赤カブなどをはじめとして、色も形も多種多様なカブの在来品種が栽培されていた。カノの衰退とともに、山間部の限られた地区だけで、それぞれに受け継がれてきた品種の多くが姿を消してしまった。温海カブとして市場に出回っているカブ漬けのほとんどは、種だけは一霞のものを使い、常畑で栽培されている。一霞の焼畑カブとは、食べ比べてみれば明らかであるが、まるで味が異なる、別物である。商品として差異化するためにも、焼畑それ自体をクローズ・アップさせてゆく必要がある。  
 カブとは限らず、食文化の均質化が進みすぎた時代ゆえに、伝統野菜がしだいに脚光を浴びつつある。県内全域で、伝統野菜の調査を行ない、その結果を踏まえて、「山形の伝統野菜」を地域資源のひとつとして活用する道を探る必要がある。それは確実に、山形らしさを演出するための、大きな拠りどころになるはずである。