冬の章

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山の正月風景から
 かつて、冬には深い雪に閉ざされて、陸の孤島のようになる村は多かった。関川(せきがわ)もまた、そんな村のひとつだった。二メートルほどの積雪がある。いまでは道路もよくなり、除雪も行なわれる。若い世代の多くはここでも、町場に勤めに出ている。それでも、冬の関川を訪ねると、籠もりの季節の匂いがそこかしこに漂う。
 関川では、正月の準備は暮れの二十五日にはじまる。納豆作り、煤払い、豆腐作り、米とぎ、餅つきと続く。そして、大晦日の歳夜(としや)には、ミズキの枝でナシダンゴを作って、茶の間に飾る。ダンゴにした餅や、小判・鍬・馬グワなどを付ける。繭玉や粟穂・ウグイス玉などの餅飾りも作る。門松は松と竹で作って玄関に立てるが、これは古くからの習俗ではない。祝い事にはたいてい、五葉松やユズノ葉を使う。歳夜には、ナラの生木を若木として囲炉裏にくべる。タラノ木を二つ割りにして、魔除けのイツシラを作り、窓や玄関に挿す。子どもらが群れなして、村中を歩く鳥追いが行なわれる晩でもあった。
 元旦の朝は、若水汲みからはじまる。年男の仕事だ。雑煮には四角い餅、イクラ・イワノリ・干しワラビやヤマドリの肉を入れる。正月の三が日は、朴ノ木で作ったハラミ箸を使う。山入りの行事が行なわれる。ナラかブナの木を二本伐ってきて、雪のうえに立て、ノサを掛け、餅を供えて拝む。昔は木こりが多かったので、木の伐りぞめの儀式として行なった。四日以降は、湯のはじめ、爪取り、七草、田打ちと続いた。七草粥には、トコロ・タラの芽・ユリ・昆布・大根・クリ・柿などを入れる。
 じつは、以前は元旦に大正月、二月に小正月を行なっていた。いつしか小正月が消えて、二つの正月がひとつにされた。そのために、行事は簡略となり、混乱も見いだされる。それでも、関川の正月風景は古い時代の面影を映している。山の正月を彩る樹木の種類の多さには、とりわけ驚かされる。稲作以前からの、山に抱かれた暮らしの記憶が、そこには透けて見える気がする。

 
複合的な山の暮らし
 山の暮らしはここでも複合的だった。田んぼでは稲を、焼畑ではカブ・ソバ・大豆・アズキ・アワを作った。関川では焼畑を、野畑(ノバタケ)とか山畑(やまはた)と呼んでいる。カノとは呼ばない。並行して杉の植林が行なわれ、野畑はやがて杉林に育ってゆく。養蚕や炭焼きも行なわれた。戦後は、ナメコ栽培に沸いた時代もあった。枕木取りや杉の伐採など、やはり山仕事が盛んだった。どれも時代の移ろいのなかで衰退していった。
 炭焼きや木挽きは、男衆の冬場の仕事だった。枕木にはクリ・ブナ・松などを使った。山奥で伐採した木は、鼠ヶ関川の川端までソリで運び、河口の鼠ヶ関の留場まで流した。山師は山主から山を買い、山子を雇って仕事をする。先祖は山師をやってひと財産作った、そんな威勢のいい話も、以前は聞かれた。林道が整備され、トラック輸送に変わり、チェーンソーによる伐採がはじまると、山仕事の世界は大きな変貌を遂げていった。山の手入れをする人が少なくなり、まさに宝の山であった山は、しだいに荒れてゆく。
 関川の冬はまた、男衆にとっては狩りの季節でもあった。藁仕事の合間に、ウサギ狩りに出かけた。何人か集まれば、カンジキを履いて巻狩りをやった。大根・ネギ・ゴボウを混ぜ、味噌仕立てのウサギ汁にして食べた。ブナが青葉になる頃から、熊の巻狩りがはじまる。ほぼ全戸を上げての、数十人規模の巻狩りとなった。熊を仕留めて村に戻ると、ナヤと呼ばれる宿の家に集まり、大きなナヤ鍋で熊肉の汁を作って飲み明かした。狩猟を仲立ちとして、村の絆が大切に守られる時代が、そこにあった。


シナ布を織る
 雪国の冬は、気が遠くなるほどに長い。その冬場の女衆の仕事は、もっぱらシナ織りだった。シナ織りの里としての歴史は、はるかに遠い。かつて温海の村々では、日常の暮らしのなかに、女から女へと受け継がれてゆく文化として、当たり前に見られたものだった。それが関川だけに残された。伝統の技がいつしか、村に輝きを与える地域資源となった。しな織りセンターでは、いまも村の女衆がシナ布を織りつづけている。
 シナノ木の樹皮がシナ布になるまでには、じつに二十二の作業の工程が必要だ、という。そのすべてが、移りゆく村の季節のめぐりと、そこに営まれる生業と暮らしの暦のなかに組み込まれ、年ごとに更新されてゆく。忍耐のいる仕事である。雪国の長い冬の暮らしが育んできた手技の世界には、独特のやさしさと美しさがある。
 梅雨の頃に、男らが山に入り、シナノ木を伐採して樹皮を剥ぐ。剥いだ皮は天日で乾燥させる。ここからが女の仕事だ。八月から九月にかけて、その皮を木灰(もくはい)とともに大釜で煮る。それを揉みほぐし、川のなかでしごいて繊維を取り出す。大きな桶に小糠といっしょに漬け込み、乾燥させて保存する。稲刈りが終わると、糸作りにかかる。シナ皮を細く裂き、繋ぎあわせ、ヨリをかけながら糸車で巻き取ってゆく。それが冬のあいだ続く。晩春から早春の頃、いよいよ織りの作業に入り、ひと月ほどでシナ布ができあがる。
 
シナノ木を植える
 シナ布を一人で織れるようにならないと、嫁には行かれない。シナ織りの技は、母から娘へ、姑から嫁へと伝えられてきた。女たちの結(ユイ)、つまり共同労働の場があった。糸車を携え、シナ糸を紡ぐユイに出かけてゆく女衆の姿は、冬の風物詩のひとつだった、という。シナ織りセンターでは、いまも、そんな昔ながらの風景の一端を見ることができる。むろん、ユイそのものはすでにない。冬のあいだだけ行なわれる「しなうみ会」に、姿を変えている。村の女衆がにぎやかに世間話をしながら、シナ糸を紡いでゆく姿は、まさに熟練の技である。
 シナ織りで得た収入は、すべて女衆が自由に使うことを許された。だから、女たちはみな、必死でシナ織りに励んだ。以前は、仲買人が一軒ごとに訪ねて、買い上げをした。安く買い叩かれることが多かった。シナ織りセンターができてからは、組合を通じて販売するようになった。付加価値を付けるために、シナ布を使った商品の開発も進めている。販売ルートもすでに確立している。
 原木のシナノ木の確保がむずかしい。自然に依存する手職の世界が、共通に抱えている悩みである。摩耶山の麓に三町歩の植林をした。いずれ、十数年も経てば、それが原木として使えるようになる。シナ織りはほんとうに、サイクルの長い仕事である。伝統の技の世界はこうして、大切な地域資源として再発見され、豊かな活用への道が開かれた。


(1)年中行事について
 暮れや正月の行事をはじめとして、一年の季節のめぐりのなかに組み込まれた年中行事は、村の暮らしのいまと昔を豊かに映し出す。消えてゆくものをノスタルジックに追い求める必要はない。しかし、そこに分厚い層をなして埋もれている、村の歴史や文化もまた、やがて将来の地域資源として発見される時代が訪れるかもしれない。  
 たとえば、山村の正月、漁村の正月、そして、平野の農村の正月はそれぞれに、思いがけず多様な顔を持っている。それは村々の原風景として、誰しもの記憶のなかに深く刻まれている。しかも、そこにははるかに遠い常民の歴史が、声もなく沈められている。それを手掛かりとして解き明かされるものは、かぎりなく多い。これからの時代には、風景はただそこに転がっているものではなく、さりげなく演出されるべきものとなってゆく。年中行事を地域資源としていかに活用することができるか、新たな課題として、とりわけ民俗学の世界では注目されることになるだろう。
 
(2)シナ織りについて
 手技や手職の世界はいま、どこでも衰退しつつある。それでも、山形県内にはいまだ、かなりの数と種類の手職の世界が生き残っている。関川のシナ織りなどは、典型的な手職のひとつであるが、それを地域資源として発見する時期が比較的に早かったために、村のシンボルとなり、しな織りセンターを拠点として活用される道が開かれた。成功例のひとつと言っていい。
 くりかえすが、伝統的な文化をノスタルジーの対象に押し込めてはいけない。それは、いま・ここに生かされるべきものである。伝統はつねに、時代の移ろいのなかで、新たに創造されてゆくものであることを、確認しておきたい。この発想の転換があれば、伝統的な地域の文化のひとつひとつが、少なくとも将来に向けての可能性として、地域資源のリストに加えることができる。
 シナ織りが村のシンボルとなりえたのは、いったい何故か。それは、シナ織りが関川という土地に深々と根を降ろした、暮らしの技だったからである。そこに沈められた時間は、はるかに深い。その古めかしい、忘れられかけていた世界が、いまを生きる人々のアイデンティティに働きかけ、村に暮らすことの誇りすら回復させる。シナ織りの時間はゆったりと流れる、まさに雪国の村の時間そのものである。そうして肯定の眼差しが芽生えたとき、それを大切に守り育て、さらには演出の手を加えてゆく必要がある。伝統をいま・ここに蘇らせ、新たな創造のなかへと導いてゆくためには、控えめな、しかし、明確な将来へのビジョンが欠かせない。そこに演出が求められる。  
 やがて、地域の時代が幕を開ける。それぞれの地域がどれだけ深くみずからを凝視し、みずからの内に隠された地域資源を掘り起こすことができるか。それが大きな分岐点となってゆく。地域に根ざし、地域から出立する内発的な発展こそが、これからの時代を支える原理となる。それぞれの拠って立つ場所から、みずからの原風景を掘り起こさねばならない。その、ひとつひとつが可能性としての地域資源である。