3 バーチの「枕ショット」論 |
「不正確な視線の一致」は、他の論者によってもしばしば指摘されてきた特長であり、特に目新しい問題が提起されているわけではないが、続く「静物ショット」の解釈は、バーチの卓見として注目すべき指摘である。つまり、「カットアウェイした静物ショット」は、「さまざまな戦略を駆使し、複雑な関係を変化させながら、説話的流れを引き延ばす」というのである。さらに彼は、和歌の「枕詞」との類比からそれらの映像を「枕ショット」と呼んで、この文化的・複合的に決定づけられた記号の解釈を試みる。----西洋的モードは、「フレーム内での構成とカメラ/説話的世界の関係全体に共に適用しうる中心化の法則によって説明されるように、大いに人間中心的である。」それに対して、「小津の枕ショットは、カメラが少しの間、時として長い間、人間の環境の何らかの動きのない側面に焦点を合わせる時、…脱中心化の効果を持つ。」「小津の最も思慮に富んだ作品のいくつかを活気づけているのは、(説話的世界の)人間の存在の中断とそれが戻ってくる可能性との間の緊張である。」
バーチが、小津の静物ショットを枕詞との類比で捉えたことの意義は、類比そのもの(文化的意味の解釈)でなく、そこから得た着想を他に拡大して、「説話的世界の人間的中心を不鮮明にしてしまう」ハード・フォーカスとソフト・フォーカスの使用のような他の手法も含めて、人間的中心に対して脱中心化している形式的特徴全体をうまく説明していることにある。もっとも、「人間の存在の中断とそれが戻ってくる可能性との間」に緊張を感じさせるかどうかは、ひとえに映画を見る人間の側の視線の問題であり、西洋人が見る場合と日本人が見る場合とでは、緊張の性質や度合いに大きな相違があると思われるが、ともかく小津の形式がそうした効果を与えることは確かである。というのは、極めて整然とした形で画面内に人物を配置し、また画面への人物の出入りをシステマティックに取り入れる小津の形式表現は、人物の存在と不在の交替を明確に視覚化し、とりわけ画面内での人物の欠落を視覚的に際立たせるからである。
バーチは、「枕ショット」に象徴される脱中心化した特徴に加え、外見の動きを凍結するように使われるカメラの動き、ロー・アングルのカメラ位置、壁に対するカメラの直面性、視線が交わらない一連の切り返しショット、画面の方向性の一貫した無視、180度の切り返しショットなどの次第に支配的になる一連の集中的戦略が、「奥行的指標の排除、映像の平面化、画面の二次元的表面への還元」という単一の効果を生み出すという、より全体的な形式的特質を指摘する。さらに、説話的世界の「生」にまたがる「枕ショット」にみられるような静止性は、特にトーキー以降支配的になり、「視覚的な動き/不動性の関係に、有声/無声という新しい弁証法的発展の成果である『戸田家の兄妹』と『父ありき』を高く評価する。彼はこの二作が、「特にロング・ショットの際立った優位性によって特徴づけられ」、「人物たちが坐る時に(画面が)しばしば脱中心化する」これらのショットが「劇的なコードよりむしろ対称性ないしは幾何学の原則に従っているようだ」とも指摘する。
サイレント後期から『父ありき』にかけて、「平面性」と「正面性」の原則が支配的になり、特に『戸田家の兄妹』と『父ありき』がロング・ショットの優位性によって特徴づけられるとするバーチの分析は、この章の中で最も納得がいく。これは私が実際に作品を見た印象からもうなづけるのだが、それよりも私が採ったデータがその事実を端的に裏付けてくれる。小津作品は総じてショットの持続時間が短く、その時間は時期ごとに一定しているのだが、『一人息子』から『父ありき』に至るトーキー初期だけが例外的にショット持続時間の長大化という傾向を示している。また、クロースアップとロング・ショットを両極としてサイズ別にショット数の割合を見ると、ロング・ショット側の引きぎみのサイズのショットに比して、クロースアップ側のショット、つまり個々の人物にカメラを寄せたショットの大幅な減少が目立つ(*2参照)。このことは、クロースアップ側のショットの減少が、相対的にロング・ショット側のショットの長大化と数量的な優位をもたらしていることを示している。私には、この時期の小津は、画面間構成よりはむしろ画面内構成、とりわけ画面内への人物配置に基づく物語の判じ絵的な表現に熱心だったように思われる。それがバーチの言う「絵画的な平面性」の効果を強調しているように思われる。