『神都岩根沢の面影』の第20章第4節に以下の記述がある。「村社要害神社境内に別に積善塚とも称する大地主神碑がある。山形県十日町に積善院と称する修験があって、その由緒は最も正しく院格も山形修験道中の優位にあった。即ち例えば水野忠精が弘化二年十一月国替えになって、山形城に入部した時には一時積善院で休憩して、しかる後に本城に入城したという事暦を持つのであった。然るに時勢の推移は、その豪勢もいつしか地に落ちて、明治二十年頃には境内を人手に任せねばならない程まで零落してしまった。いつとはなしに境内が市民の宅地となって町家が営まれたが、永住する者がなく、持ち主は転々として変わって大場権作という人に移った。この人は神仏心者の信心者であったから、そこが寺院の旧境内である事に思い立ち、御堂に当る敷地方三間を発掘してみたところが、経文の字句を書いた礫が沢山出土したので―経塚であったか―その経石を俵につめて牛に7駄、岩根沢神地に運搬して改めて経塚を創め、大地主神碑と名付けたのだという。」
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