三山敬愛教社の設立 明治維新の神仏分離はじめ、明治初期に大きな変革が起った。明治六年三月、政府は羽黒山を出羽神社と命名し、国幣小社に列すると、翌七年八月には、月山を国幣中社、湯殿山を国幣小社に列した。三山口では、各登拝口には社務所が設けられ運営されていたが、地元をはじめ、参拝者側にも多くの混乱を与えた。明治八年七月に社務出張所が開設されると、教部省許可の「三山敬愛教社」も各登拝口に設置された。その教主には、権少教正・西川須賀雄が就任し、第一部長に、宮下正勝以下題部まで編成されていた。三山敬愛教社の発足は、在地の宮司らによって組織立てられ、それを官吏の祠官掌が助勢するものであったから、こうした神道による新たな組織を育てあげ、この中で国教である神式の作法を形の上からも植付ける必要があった。明治十三年四月十九日には、県当局の許可を得て「三山参詣人保護印鑑」を発行している。これも参詣人をより専有し、登拝の安全にも留意するというもので、先導者にこれを授け、住所や氏名、その員数を記入させて、割印を施し、巡拝中の月山、湯殿山、仙人沢、志津、大満の名所で改めるというものであった。吹雪や風雨の強い時などは、印鑑を発符しない規則であったから、遭難防止の対策も講じられていたのである。
表面 群馬県勢多郡新里村大字奥沢
三 山 敬 愛 教 会 記 念 碑
秀南 矢部秀之書
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