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西川町石碑石仏資料

「日本の石仏」 2004 NO.111  特集―石祠

カテゴリ: 未分類 地域: どこか 年代: その他
(2004/10/18 更新日: 2007/05/22)

山形盆地西部の石祠について―西川町を中心として―    那須恒吉


一西川町の概要
 西川町は山形盆地の西部に位置し、朝日連峰や月山に抱かれ、総面積の九割は山林が占め、耕地と集落は寒河江川の本・支流沿いに分布している。江戸時代は幕府の直轄地と蝦夷・松前藩領として支配されていた。交通路としては山形盆地と庄内を結ぶ六十里越街道(現在は国道一一二号線)が走っており、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の参詣路として行者の往来が盛んであり、特に海味や水沢は宿場町として、また岩根沢や本道寺及び大井沢は出羽三山の登山口として、大伽藍の別当寺を中心に宗教集落が形成されていた。特に湯殿山信仰と関係が深く、湯殿山碑が多く建立されており、三山行者で賑わった面影をとどめている。しかし、戦後はエネルギー革命や貿易の自由化等に伴う産業構造の変化によって、過疎化が進展し、さらに平成二年に完成した寒河江ダムの建設のため砂子関と月山沢の集落は全戸移転するなど、人口の流出が続いている。
 西川町は平成十四年四月から町内の石碑・石仏の悉皆調査に着手し、同十六年三月に調査結果の全貌が明らかになった。本稿はこの悉皆調査項目中の石祠(万年堂)に関する報告の概要である。

二、石祠に祀られた神仏
 西川町には一〇一基の石祠の存在が明らかになった。この石祠に祀られている神仏の中で、最も多いのが「稲荷大明神」であり約四〇%を占めている。(@参照)。

@西川町における石祀の祭神
稲荷37/山神7/秋場山3/虚空蔵菩薩3/不動尊3/三宝荒神2/十二神将1/大黒神社1/阿弥陀1/薬師瑠璃光如来1/古峯神社1/雷神1/庚申1/天神1/水神1/太神宮1/熊野山1/山王宮1/東照宮1/不詳33/合計101

この祭神は農耕神として沼山、吉川、間沢、小山、本道寺等各地区に分布している。次に多いのが「山の神」である。祭神不詳の石祠が三三%の多きに及ぶが、その中には山の神を祀ったものが存在すると思われる。第三位は「秋葉山」である。これは火伏せ(火防鎮護)の神として信仰され、石祠は集落近辺の小高い山頂に建立されている。秋葉山信仰は明治初年の神仏分離後衰退が著しく、祠のみがさびしく建っている場合が多い。このような傾向の中で、寒河江市白岩地区の上楯山に祀られている秋葉山神社は、地区民の信仰に支えられ、五月の第二日曜の祭典の折は、若者組が主体となって石祠の前にて式典を催し、その後子供神輿を繰り出すなど、昔日よりも活性化を呈している事例である。秋場山と並んで多い石祠は「不動尊」である。不動明王は治病、災害除去等の祈願をかなえてくれるとされ、厚く信仰されてきた。不動明王は大日如来の変身といわれ、湯殿山の本地仏が大日如来であり、この湯殿山信仰と関係が深いのではないかと思われる。

三、石祠建立の年代
 石祠総数の六〇%は建立年が不明である。建立年を刻石しなかったのか、あるいは刻んでも風化のため判読が不可能になった結果であろう。そこで建立年の明確な四一基について分析すると、江戸時代前期に建立されたものはなく、最も古い石祠は水沢地区の享保三年(一七一八)である。次は入間地区に存在する明和四年で、共に祭神は不詳である。祭神が明らかで古い石祠は、吉川地区安中坊屋敷内の「秋場山」であり、この石祠の石室側面に「奉建立秋場山大権現 明和五子天正月吉日 俊賀 敬日」と刻印されている。総じて江戸時代に建立されたものが最も多く、明治、大正、昭和の各時代にも建立されている(A参照)。

A建立年代
一七〇〇〜一七四九 1/一七五〇〜一七九九 8/一八〇〇〜一八四九 8/一八五〇〜一八九九 8/一九〇〇〜一九四九 14/一九五〇〜 2/合計41
時代別内訳
江戸時代 20/明治時代 7/大正時代 9/昭和時代 5/
 
四、石祠の構造
(1)石室
 石祠は基壇、石室(軸部・身部)、屋根の三つの部分から構成されている。基礎に当たる基壇は自然石を使用しているのもあるが、大部分は凝灰石や安山岩を方形にした切石である。ほとんどは一段であるが、二段あるいは階段状に加工したのも見受けられる。石室の部分は石材を角柱状に加工し、正面は室状に深く彫り込み、御神体を安置できるように作ったものが多い。さらに入口に木製の扉を取付けたり、その扉に円形(太陽)、半円形(月)、あるいはハート形の隙間を作ったものもある。また室状には彫り込まないで、扉状にのみ刻んだ石室もある。
(2)屋根
 屋根の形は切妻造妻入,切妻造平入、宝形造、唐破風造、流造、入母屋造を用いたものもある。

B西川町におけろ石祠の屋根形
切妻造(妻入) 10/切妻入(平入) 56/宝形造 16/唐破風造 3/入母屋造 4/流造 3/その他 6/自然石 3/合計101

これらの中で最も多いのが切妻造平入で五六%(B参照)を占めている。次は宝形造が多い。吉川地区安中坊屋敷の秋場山は大きな宝珠を載せた宝形造の屋根で、正面は唐破風状に作られ、雲形模様の妻飾りになっている。特殊なものとして本道寺地区の稲荷様の屋根は切妻造平入であるが、千木を載せた珍しい形である。このように屋根の形は神社や寺院建築の様式が基調になっている。

さいごに
 これまで列記した西川町の石祠の特色は山形盆地西部の地域と比較すると大同小異であり、標準的な姿であるといえよう。ただ戦後の社会経済状況の変化に伴う深刻な過疎化と寒河江ダム建設に伴う集落の解体等は西川町特有な事象であり、これらのことは石祠の現況にも投影されていると見るべきであろう。
 
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