リリアン・ヘルマン(1905〜84)の戯曲を,彼女が脚色,ウイリアム・ワイラーが監督した作品である。
『この三人』(1936,原作・脚色へルマン),『デッド・エンド』(1937,原作シドニー・キングスレー,脚色ヘルマン),『偽りの花園』と,ゴールドウィンでのワイラーは,8本の自作のうち3本でヘルマンとつきあうことになったが,これにはヘルマンの方にいきさつがあった。彼女は,MGMで小説や戯曲から映画化に適した作品を選び出す仕事を薄給で請負っていた。やがて彼女の処女作『子供たちの時間』(1934)が大当りをとり,さっそくMGMから映画化の申込みがあったが,彼女はそれを蹴ってゴールドウィンに売込んだ。そして映画化されたのが『この三人』である。これはワイラーにとっても演出の真価を問う快打となった作品である。人間の偽善やエゴを暴いてみせるヘルマンの作品は,もともとMGMの商業主義的社風とは不釣合だったろうし,独立気鋭のゴールドウィンで,それもワイラーが再三彼女の作品を演出できたのは,双方にとって幸運なめぐり合せだったと言うべきであろう。
『偽りの花園』は,まずヘルマンのドラマによって注目される作品であると同時に,技術的な面からも高い評価を与えられた作品である。ワイラーは,この作品で望み通りの完璧な演出を成し遂げたと言われているが,彼の演出を技術的に支えたのが名カメラマン,グレッグ・トーランド(1904〜48)である。トーランドは,ワイラーがゴールドウィンで監督した作品のうち,『孔雀夫人』(1936)を除く全作品の撮影監督をつとめ,『風が丘』(1939)ではアカデミー撮影賞を得た。今日では,オーソン・ウェルズ監督による傑作『市民ケーン』(1941)で驚異的なパン・フォーカス撮影を実現させたカメラマンと言った方が名の通りがいいかもしれない。
『偽りの花園』は,トーランドが『市民ケーン』に引き続いて撮影を担当した作品であり,『市民ケーン』での技術的達成に「わが意を得たり!」の思いで接したワイラーは,トーランドの全面的な理解と協力の下に綿密な画面設計を行った。しかし,ワイラーが考えた演出は,『市民ケーン』でのエキセントリックな技術的誇示とは全く異なり,逆に現実的な自然さを演劇的演出のうちに獲得することだった。その経緯をアンドレ・バザンは次のように伝えている。――演劇的な脚本の形式と舞台装置を尊重し,行為の強調を俳優の仕事として考えるワイラーは,「劇的な公正さへの意志」のため,舞台装置も照明もレンズも皆「中立的性格」を目ざした。そのためトーランドは,「かつて世界のどの映画においても行われたことがなかったと思われるほど,極端にレンズを絞らなければならなかった。」(「ウィリアム・ワイラー,または演出のジャンセニスト」,『映画とは何かU』小海永二訳,美術出版社)
地味な仕事ではあったが,この演出技術は公開当時から識者の注目を浴びたようだ。批評を引用してみよう。――「グレッグ・トーランドの助力を得て,ワイラー氏は充足感に満足した家族についての数知れない微細なディテールと,多くの登場人物に関する,より直截な側面を見渡すべくカメラを使用した。フォーカスは鋭く,映像の感触は硬く,リアリスティックである。」(『ニューヨーク・タイムズ』1941年8月22日付)また登川直樹は,「『市民ケーン』が技術実験的な調子を拭いきれなかったのに比して,ワイラー作品ではこれをもって様式上の統一をはかったという意味で『偽りの花園』のパン・フォーカスは格別な意義をもつものであった。」(『キネマ旬報』1954年3月下旬号)と述べている。
ワイラーは,この作品では,パン・フォーカス撮影によって画面に必然的に招き入れられる空間の歪みを極力抑制しながらも,それ以前の自作にはみられなかったほどの空間的戦略を全面的に実現させてみせた。たとえば『孔雀夫人』では,舞台空間の単一の奥行を中心化する構成において,空間的統辞が図られていたが,この作品では,カドラージュ優位のデクパージュが行われ,劇的効果へ向けての工夫がさまざまに試みられている。つまり,多様なカメラ・アングルの使用(特に俯瞰と仰角),カメラと被写体間の距離・方向・大きさの関係に基づいたカドラージュ,階段のような舞台装置内の傾斜面の強調,画面外空間(あるいは焦点外空間)の意識的利用,鏡による別空間の同一画面内への重ね合せ,人物の視線の役割の重視,装置内の意匠(たとえば前後に交錯しあう階段の手すりの幾何学的様相)の強迫的反復提示等々。このような戦略の数々は,個々の人物の心理や相互の葛藤を浮彫りにし,腹黒い策略の渦巻くドラマの状況を緊密度の高い展開にまとめあげるのに役立っている。
また,演劇的形式に忠実であろうとするワイラーの演出が,逆に映画的空間の創造に寄与したことは,〈見た目〉の主観ショットが極力排除され,フル・ショットとクロースアップが多用されるなど,いわゆるハリウッド・コードの放棄が目立つ点からも指摘できるだろう。
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