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ミッチーのほぼ日記

シャイアン(1964)  Cheyenne Autumn

カテゴリ: 映画作品解説
(登録日: 2014/01/18 更新日: 2024/02/22)


この記事は、「おらほねっと/ミッチーのほぼ日記」から転載したものです。
http://sns.orahonet.jp/blog/blog.php?key=14041
 

解説


先日、NHK BSプレミアムで『シャイアン』(1964年、ジョン・フォード監督)が放送されたので、録画して後から観ました。

『シャイアン』は、米国政府の対少数民族政策に翻弄されるシャイアン族の悲劇を描いています。国の政策で居住地区を勝手に決められ、強制的に移住させられて民族の根っこ(故郷)を失い、弱小化していくプロセスが生々しく描かれています。確かにこの物語自体にインパクトはありますが、それにも増してその悲劇を印象深くしているのが場面場面の背景に見事なまでにフレーミングされ、取り込まれたモニュメントバレーの山容です。さらには白雪を被った極寒の大平原の風景。それらの景観が場面の背景となって、これでもかこれでもかというぐらいに「一幅の絵画」として見せられ続けます。山の選び方、フレーミングの仕方、風景への人物(騎兵隊の隊列や移動するシャイアン族の群れ)の置き方の一つ一つが完璧としか言いようがないぐらい。こういう映像の組み立てはジョン・フォードの独壇場ではないかと思わせるぐらいに凄みがあります。自然を背景にした人物+風景は叙事詩と呼んでもいいものかもしれません。それに比べると室内での人物の芝居が平凡です。フォードはあまり人物の葛藤や芝居には向かない監督だということがよくわかります。

ジョン・フォードが『アイアン・ホース』(1924)から40年後に『シャイアン』を作ったことを対比させると、ここには米国の民族差別史、あるいはジョン・フォード物語と言うべきものが見えてきます。西部劇の神様と謳われたジョン・フォードの初期の代表作と最晩年の作品。どちらにもシャイアン族が出てきます。『アイアン・ホース』のシャイアンは西部劇のお決まりパターンの野蛮なインディアンとして扱われています。今から見れば人種差別も甚だしい。40年後の『シャイアン』はシャイアンに対する眼差しがドラマの眼目となっている点で隔世の感があります。この40年間にインディアンに対する差別意識が社会的に是正されてきたことを裏付けています。これを見ていて、米国の日本人移民がどのように蔑視されていたかを想起しました。差別を受けた同じ民族の側からすると、どうしてもそこに目が先に行きます。

ジョン・フォード物語としては、当然のことながら、40年の時間差がその変化を雄弁に物語っています。これはジョン・フォード監督の熟成のプロセスが映画という芸術・娯楽産業、技術の進化と共にあるという点が何よりも価値のあるものです。映画の表現が進化=深化し、40年後には『シャイアン』のような熟成の域に達した。加えてその間のフォード西部劇の進化。その後、モニュメントバレーという西部劇の素材が発見され、それが活用されて、フォード西部劇の独壇場が形成されたと言えます。一体何度、モニュメントバレーが西部劇の風景の背景に見え続け、ジョン・フォードの記号学を作り出してきたことか。少なくとも『アイアン・ホース』にそれはありません。『シャイアン』、これは言い換えるとモニュメント・バレーの主題による変奏曲と呼んでもいい作品。独壇場と化しており、他の誰もがこれを模倣したり、超えたりすることはできません。

ジョン・フォードの「西部劇」は、興行的な名目というか、口実としてのものであって、人が生きていくうえで欠かすことのできない「心の故郷」のようなもの、生きる支えのようなもの、それが自然、歴史、人の関わりで構成し表現したものではないかという気がします。
 
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