数々の名作を手がけたウィリアム・ワイラー(1902〜81)が、サミュエル・ゴールドウィンと専属契約後,『この三人』(1936)に続いて監督した作品。
フランスのアルザスに生れたワイラーは,ハリウッドの大プロデューサーであった叔父のカール・レムリを頼ってユニヴァーサルに入社し、レムリの秘書をつとめた後監督に転向,無声期からB級西部劇や短編を監督した。トーキー初期の作品『砂漠の精霊』(1930)、『北海の漁火』(1931)等で既に名声を得ていたが,ゴールドウィンに移籍後の約10年間は、ワイラーがその芸術的才能を最も遺憾なく発揮した時期である。同時に,彼にすぐれた原作=脚本を提供し,彼の手腕に全幅の信頼をおいたゴールドウィン(1884〜1974)のプロデューサーとしての才識を見逃すべきではないだろう。『この三人』『孔雀夫人』『大自然の凱歌』(以上1936),『デッド・エンド』(1937),『嵐が丘』(1939),『西部の男』(1940),『偽りの花園』(1941),『我等の生涯の最良の年』(1946)と,ゴールドウィン専属時代の作品は,他社で監督した作品『黒蘭の女』(1938),『月光の女』(1940),『ミニヴァー夫人』(1942)を含めても寡作と言えるかもしれないが,冷淡とも思える着実な演出ぶりは当時のハリウッド映画においても異彩を放ち,いずれの作品もが野心に富んだ試みと高水準の成果を示している。
『孔雀夫人』は,シンクレア・リュイスの小説の映画化で,同じ原作の戯曲化に当ったシドニー・ハワードが脚色,舞台で主人公サム・ダッズワースを演じたウォルター・ヒューストンが映画でも主演した。
脚色に関し,ハワードは「舞台劇としてよりも,映画として,原作の主旨をよりよく盛込み得た」(『キネマ旬報』1937年5月11日号)と語っているが,果して結果はどうであろうか。公開当時の批評をみると,『ニューヨーク・タイムズ』(1936年9月23日付)では,「作家の真摯さで彼の劇を映画に脚色した」が,「劇の連続性,性格描写,会話といった彼の着想に軽く負って,彼の劇を映画向きのパターンに転換していない」とし,ワイラーの「(劇を)映画的語法で実現する技量」と演技指導の方にむしろ批評の重点を置いている。また清水千代太は,「一場面一場面が,少し過褒に傾くが,生きた人生の断片とも言える,嘘のない――少なくとも芝居的な嘘のない情景から成っている。これは脚本が当を得たこと,俳優の良かったこと,にも勿論困るが,ワイラーの熱情が熾んに燃えていたからである,と思う。」(『キネマ旬報』前掲号)とし,脚本の良さを褒めながらも,最終的にはワイラーの演出をさらに高く評価している。
そのワイラー演出であるが、彼の演出の確かさは,俳優の演技指導は言うに及ばず,先の批評でも触れられた「映画的語法」に対する技量,すなわち,映画形式に内在する表現の可能性をまさに「劇」の一点に向けて引き出し,機能させた技量に認めることができる。
この作品の演出における最も顕著で中心的な戦略は,空間を観客にとって読み易くするためにカメラがそれを超えてはならないとされるイマジナリー・ラインの,まさにその直線を画面の〈タテ〉(前後方向)にとった奥行きのある空間の利用に見出すことができよう。もっとも基本的なデクパージュは,ハリウッドの慣習的なコンティニュイティの原則に従っているように見え,人物相互のカットバックが多用されるが,その場合も,カメラは各々イマジナリー・ラインの線上すれすれの位置に配置されるというように入射角度が極めて鋭い。また人物の位置関係明示の手だてとなる,相手の人物側からの肩越しの撮影は殆どなく,カメラは個々の人物にほぼ正対する。但し,位置関係の混乱は,人物の動きに合せたパン撮影による空間的連続性の保持と,空間的様相のタテ線への収斂手段(前後へのカメラ位置の転換,人物の動きに合せた前後への移動,人物や劇的効果を生む意匠の前後への配置)によってかろうじて避けられている。こうした空間的戦略が,劇的効果を生み,劇の緊密度を高める仕掛けとして役立っていることは言うまでもない。
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