難波宮(なみわのみや)史跡公園ではこの日「大阪あきない祭り2012」というイベントが開かれていたようです。私が訪れた時はイベントが終わり、参加者がその後片付けをしていました。
ところで、古代の日本では手軽に都をつくり、つくっては遷都し、ということを繰り返しています。数年で首都が変わるというのは現代の感覚からは信じられないことです。その時代、「都」というものや都市計画は大陸から学んでいます。ある時は朝鮮半島から、ある時は中国から。首都の都市計画のリハーサルを繰り返して最終的な首都を平安京に完成させたのではないかと思えるほどです。難波京も短命だった首都の一つです。
平城京や平安京に比べて難波京はあまり知られていません。奈良や京都のように古代都市の形状や遺構が現在まで残っていれば、古都・大阪に多くの人が関心を持ったのではないでしょうか。そのため勢い大阪は豊臣秀吉の大阪城以後ということになり、大阪は歴史のある都市であるにもかかわらず、直近の400年ぐらいが知りうる範囲となっています。
その点で難波宮の跡が「ここである」と確認できるのは素晴らしい。「遺跡の概要」の説明板を見ると、難波宮は大阪城の一部、NHKあたりを含めて大きく存在していたことがわかります。大都市大阪の中心部にあって、これだけ広大な土地が都市化されることなく残っているということもある意味奇跡的なことです。
説明板の説明を見てなるほどと納得したのが「港」の存在。それまで都のあった飛鳥、奈良に比べ、大阪は海に面し、外国との交通の要衝であったことがわかります。大阪城が難波宮跡と近接しているのも水域の存在とかかわりがあります。大阪城の場合には水が防御壁になっていました。従って都市は南側に広がることとなります。難波京も、総構えの大阪城も。大阪城出丸の真田丸はまさにその南の先端部に作られたわけです。
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