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地域の言葉の変容と民話

資料: 民話いろりばた考
(登録日: 2002/03/29 更新日: 2019/06/17)


前川道博

東北芸術工科大学・メディア環境研究室

民話への視点


時代の変化と共に民話はその影響を否応なしに受けてきています。民話が生活と共にあった時代の「いろりばた」はもはや殆どの住居から姿を消しました。情報メディアが多様化し、社会が変質し、現在の「民話」はビデオ、アニメーションなどによる映像コンテンツとなり、民話の本質的な姿と考えられてきた「語り」もまた民話伝承館という文化施設・文化的社会的機能によって庇護される対象となってきました。このような民話の変容を私たちはどのように捉えればいいのでしょうか。
 

土地の言葉が失われると民話の本質は変わるのか


これは哲学的な深い問いかけかもしれません。その土地の言葉で語り継がれてきたのが、これまでの「民話」の概念でした。しかし、その土地固有の言葉は現代社会からは失われつつあります。民話と語り、そして土地の言葉との膠着(こうちゃく)性が変わってきているのです。膠着性とは異なる要素が不可分に結びついている性格のことです。日常生活でも私たちは標準語または標準語に近い言葉を使っています。民話がその土地固有の言葉で語られてきたのは、物語をきめ細かく豊かに表現するのに最も適しており、自然に生き生きと発話できる表現方法であったことに理由があります。現在失われつつある土地の言葉で語るのは、もはや日常的な表現行為ではありえません。土地の言葉で語られる民話の語りがどんなに魅力的なものであるとしても、私たちの言語環境が変わってしまった今、民話を私たちが伝承しようとすると、発話すべき言葉を持ち合わせていない困難に直面します。土地の言葉を習得し、土地の言葉で語ることができたとしても、それはかつての「民話」ではもはやなく、無形文化財としての民話の伝承という活動を行うことになります。この問題を私たちはどう考えればいいのでしょうか。
 

古典芸能と民話の違い


能、狂言、歌舞伎などの古典芸能は、再現されるべき台本を持っています。ある時代、ある作者によって創作されたこれらの作品は、まさに文字によって書かれたものであるため、数百年を経た今日でも創作当時の言葉で再現しなければなりません。これが古典芸能と言われる所以(ゆえん)です。

こうした古典芸能と民話は何が違うのでしょうか。第一に台本というものがありません。まさにそれは伝承という無形的な状態の中に実体があるものです。たとえ同じ話でも、時代や語り手個人ごとに同じ話は表現が異なるのです。もし、それを文字に表すと、文字化した人の恣意(しい)性が加わった作品になってしまいます。しかし、民話は作品ではありません。表現は変容し続けても伝承されていくものが民話の本質的なものなのです。
 

生きる知恵としての民話


冬、雪で覆われる山形の自然環境は厳しく、地域社会を維持するための掟も厳しく、他の地域との交通・交流も困難であった時代、民話は「生きる知恵」を人々に与え、生きる楽しみを共有する大切な役割を担っていました。生活環境が進化し、私たちはそれほど苦労しなくても毎日を生活していけるようになりました。また地縁という社会のあり方も変わってきました。このような現代に「民話」はどのような存在意味を持つのでしょうか。
 

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