蚕都熊谷については意外なほどに人物名が聞こえてきません。後に片倉工業が中心企業となり、地元の個人名がその中で相対化された感じはしないでもありません。『熊谷市史・後編』(1964年)の「第29章人物」には数多くの人物が紹介されています。その中で蚕糸業に関わる人物を拾い出してみます。
★鯨井勘衛 「当所、玉井の素封家に生れた。幼児より育蚕を好み、長じて各所にこれが研究に没頭した。そして国家経済の実状を審かに調査した結果、養蚕業の最も緊要なるを悟り、明治二年、養蚕飼育場元素楼を造営して清涼飼育を開始し、爾後勘衛の斯業に対する研究はますます盛んとなり、県北養蚕業を開発するもの実に大であった。」(p.405)
★鯨井治助 「当所熊谷に生れ、世々塩、砂糖を業としたが、時世に感じて養蚕業の必要を悟り、明治二年蚕卵紙製造を始め、次いで明治八年牛乳搾取業の国策上切要なるを認めて創業した。爾来幾度か破産の憂き目にあったが、あらゆる困難にうち勝って遂に素志を貫徹した。埼玉県における牛乳搾取業の開祖である。」(p.405)
世情を鑑みて蚕卵紙製造を始め、牛乳搾取業の開祖というのが面白い。
★福島儀平 「大里村より当所に移住し、夙に養蚕業の必要を感じ、精業社を建てて当地方養蚕の指導につくした。」(p.420)
※「精業社」は正しくは「精業舎」のようです。
★田中基烋 「大字代の人、戸長役をつとめ農家の副業として養蚕、天蚕飼育等の実業開発に力を注いだ。」(p.411)
市史の人物編の問題はそれぞれの人物の生没年を記していないことで、一体どの年代の人物かがはっきりしない場合があります。この人物については、戸長役と記されていることから明治の市制町村制が始まる1889年までの村長相当の役をしていたことがわかります。
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