「桑樹の栽培、および、養蚕業も附近一帯に行われたもので、生絹業は久下、代、大麻生、川原明戸、久保島、高柳地方に行われ、熊谷絹も、熊谷白と共に古くから世に知られている。これらの産業は、時代の推移によって消長はあったが、幕末に玉井の鯨井勘衛と手島の福島儀平は、外国貿易と農村振興のために養蚕飼育を始めた。勘衛は安政元年(一八五四)桑樹を陸田に栽植し、世人の非難を受けたが、意とせずに養蚕、および、生糸の製造に従事し、文久三年(一八六三)には蚕種を製造して、国内はもちろん、遠く海外にまで輸出して、その成績が顕著であった。里人もこれに従い、たちまち当地方一帯が養蚕地となるようになった。慶応二年(一八六六)には荒地の熊谷河原を開墾して一円桑園と化した。これが県下桑園のはじめである。その後、県当局にも建言して栽植を奨励し、また自ら竹井噡如と、万吉河原を開墾して増殖に当った。今日、当地方の養蚕業の盛んになったのは、実にこれらの人々の努力にまつことが多いのである。福島儀平は、精業舎を起して、養蚕飼育を享受した。このことから多数の生絹の仲買商もできて、県北の繭の集散地という名をほしいままにするようになった。」(p.58)
幕末期の鯨井勘衛、福島儀平の養蚕振興策が熊谷に蚕糸業の隆盛をもたらした功績が大きい。生糸をつくれば一攫千金の夢がかなった当時の生糸貿易の好況に便乗したとも言えます。蚕糸業のポテンシャルがあった埼玉県全域に養蚕が広がるのは当然だったとも言えます。誰が最初のトリガーになるか、ということだったかもしれません。
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