甲府市歴史公園 市民現場見学会
■日時:平成18年7月16日午前10時〜12時 ■場所:現地 ■主催:甲府市教育委員会 ■見学会で市教委担当者が参加者に配布した見学会資料と現場写真は、NPO法人地域資料デジタル化研究会が市教委から許可をいただいて、本ライブラリーに掲載いたします。 (注記:著作権は甲府市教育委員会にあります。また、原資料の明らかな誤字脱字は修正し、利用者が読みやすくするために段落間に空白行が挿入してあります。)
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■歴史公園の概要
山手御門は、甲府城に三つあった出入口の一つです。土橋より堀を渡り、高石垣と土塀に囲まれた内側の高麗門(山手門)と櫓門(山手渡櫓門)から構成される山手御門を通って、ここから南の城内(現・舞鶴城公園)に出入りできました。しかし明治期に破却され、今では線路で分断されています。
発掘調査では堀石垣群跡と土橋跡が検出されました。石積みの状況と文献史料から舞鶴城公園内の天守台とほぼ同時期の天正末期から慶長初期(16世紀末〜17世紀初)頃に造られたと考えられます。防御上重要な箇所なので、石垣の完成と同時に櫓門の建造が始まったと想定されます。当初の建造物の史料は全くありませんでしたが、情報量が多く信憑性が高い「楽只堂年録」絵図をもとに建造物規模を推定しました。また、発掘された石垣遺構に基づいて位置を定めました。このようにして、「楽只堂年録」に描かれた時代(18世紀初)の姿に復元しています。
「楽只堂年録」絵図は、宝永2年(1705)に柳沢吉保が石垣の改修を行う際に描かれたものです。 この絵図には石垣の高さ・土塀の長さ・御殿等の平面・石階段の段数等が詳細に描かれています。
「楽只堂年録」山手御門部分→ 図版参照
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甲府市歴史公園 市民現場見学会
■山手渡櫓門の概要
山手渡櫓門は、櫓門という形式をとります。 残念ながら山手渡櫓門は遺構や写真などの直接的な史料はまったくありませんでしたので、絵図と類例櫓門から類推・考察をしています。
「楽只堂年録」の絵から石垣の上に渡しかけていることが分かります。1層目は高石垣の間にあり、門扉を備えています。他の一般的な櫓門のように、ケヤキ材を用いた太い柱で堂々と2層目の櫓を支えることとしました。2層目の規模は、「梁間(短いほうの長さ)3間×桁行(長いほうの長さ)7間」という記述がある絵図が「甲斐府中城図」「甲府城絵図」と2種類あることから、3間×7間としました。 2層目は、写真の残っている甲府城追手門を参考に、外壁をすべて漆喰で塗り込めますが、内部はヒノキ板張り仕上げです。櫓門の典型的な入母屋という形状の屋根の上に鯱瓦を乗せることとしました。屋根、庇ともに本瓦葺です。
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甲府城跡山手門跡の歴史
1.歴史概要 甲府城は一条小山と呼ばれる小高い丘陵を利用して築かれた平山城である。 当初は一条道場と称されていたが、鎌倉時代、一条忠頼(武田信義の長子)の夫人が尼院とし、その後これを武田信長の時僧寺に改め、一蓮寺を開山した。 甲斐国は南北朝の乱後の中世から武田氏に支配されたが、天正10年(1582)織田・徳川両軍により滅亡させられた。その後、一時的に河尻秀隆によって領有されるが、本能寺の変後は徳川氏が支配権を握った。
徳川家康はそれまでの武田氏の館が手狭であったため、一条小山への城郭建設に着手したとされる。甲府城建設計画は、城代平岩親吉により縄張が行われたともいわれる。 天正18年(1590)の小田原の変後、豊臣秀吉は家康を関八州に領地替えした。甲斐は対家康への最重要地点とし、関白秀次の弟である羽柴秀勝を封じた。翌年には加藤遠江守光泰が入甲、文禄の役で没するまで光泰は甲府城普請を行う。その後五奉行の一人浅野長政が甲斐に封じられ、文禄3年(1594)には築城も完成に至っていたものと思われる。
慶長5年(1600)関ヶ原の役では、浅野長政・幸長父子は家康方につき、戦勝をおさめ加増されて和歌山に転封された。転封後、甲斐は徳川領となり平岩親吉が再び城代となり、入城して修理を加えている。慶長8年(1603)家康の第9子義直が封じられたが、実務は平岩親吉が執った。慶長12年(1607)義直が尾張に転封となったため、甲府城は城番が置かれた。
元和2年(1616)2代将軍秀忠の次男忠長が城主となるが在城せず、寛永9年(1632)に除封となる。その後29年間にわたって城番制が行われた。 寛文元年(1661)3代将軍家光の三男綱重、綱重が没すると嫡子綱豊が甲府城主となった。 この頃、城内の破損が目立つようになり大修理が行われている。 綱豊にかわって宝永元年(1704)柳沢吉保が甲府城主となった。吉保は宝永3年(1706)城の大改修を行うとともに、城下町の体裁を一新した。その後吉保の子吉里が城主となるが、享保9年(1724)大和郡山に転封され、以後は幕府直轄の天領として甲府勤番制度が敷かれる。
享保12年(1727)郭内の勤番屋敷からの出火により、本丸以下の諸櫓門等が焼失している。慶応2年(1866)まで甲府勤番制度は続き、その後新たに甲府城代を設置し明治維新を迎える。 慶應4年(1868)政府軍は甲府城に無血入城し、軍の所有となり本営となった。明治5年(1872)には陸軍省に所管となり、形式的には軍の施設として利用され残された。翌年の廃城令によって、甲府城は内城のみを残し、諸門は撤去され堀を埋めたてられ市街地化された。
その後も内城には勧業試験場,葡萄酒製造所等が建設された。その中で大きく変容したのが明治20年(1897)清水曲輪を甲府駅の敷地にあてたことで、このときに山手門一帯の石垣も崩され堀は埋められた。 明治37年(1904)西側郭を除く内城を「舞鶴城公園」として一般に開放された。大正15年(1926)内堀を埋め立て士地を売却した資金で内城にあった甲府中学校を移転する。その跡へ現県庁舎等を建てる。これらによって甲府城の西側の郭の他は旧態を失った状態となった。 ---------------------[End of Page 3]--------------------- 2.山ノ手門跡の概要
甲府城山ノ手門は、現在知られている柳沢時代以降の虎口としては北側追手に位置し、堀を渡る木橋と土橋、その先に枡形門虎口形式として表門(平門)と山ノ手門(二層櫓門)から成る厳重な構えを持つ出入口である。 先の発掘調査結果からも土橋の石垣、虎口枡形の石垣基礎及び堀石垣が検出され、江戸初期の様相と思われる割石垣と柳沢時代以降改修されたと思われる切石に近い石垣(土橋部分)など検出され特徴的である。
甲府城は築城当初の様相が明らかでないため、山ノ手門付近の様相も不明である。しかし、絵図史料を見る限り虎口の規模・形態が大きく変わるような改修はなく、形状は当初から明治までそう変わらなかったと思われる。山ノ手門は二層の櫓門として絵図に描かれ、享保12年(1727)の火災では焼失せず、明治初年まで存在している。 山ノ手門跡の様相が判る資料としては絵図があるが、明治以降の取り壊された時等の資料は不明で、古写真も山ノ手門は木橋手前から撮られた1枚のみである。 ---------------------[End of Page 4]---------------------
■甲府市歴史公園の概要
1.築造目的
現在、甲府市で推進している甲府駅周辺拠点形成事業の一環として、多目的広場や北口駅前広場整備に並ぶ歴史公園整備事業であります。 都市公園として整備を行うとともに{甲府城跡の一角でもある山手門の形態が事前の発掘調査でも確認されていることから、調査結果を基に歴史公園としての整備を推し進め、特徴ある駅周辺拠点形成を目指し、市民や県外来訪者への憩いの場や歴史資源を活かした生涯学習の場を提供するものです。
2.工事名 「甲府市歴史公園築造工事」
3.築造場所 甲府市北口二丁目170-7他 4.工事期間 平成17年6月13日〜平成19年3月15日
5.工事概要 @土木工事 ・造成面積 A=6,039u ・地盤改良工 一式 ・石積工 一式 ・排水工 一式 A建築工事 やまのてわたりやぐらもんふくげん ・山手渡櫓門復元(木造2階建 建築面積102.82u 延べ面積99.71u) ほんがわらぶき しっくいぬりおおかべ 屋根:本瓦葺 外壁:漆喰塗(大壁) やまのてもんふくげんもくぞうひらやだてそでべいづけ ・山手門復元(木造平屋建袖塀付) ほんかわらぶき 屋根:本瓦葺 外壁:漆喰塗(大壁) どべい もくぞうほんがわらぷきしっくいぬりおおかべ ・土塀復元(木造本瓦葺漆喰塗大壁) 延長69.OOm ---------------------[End of Page 5]---------------------
■山手渡櫓門の木工事の概要 山手渡櫓門の木工事は、材木を選ぶところから始まり、加工場での加工を経て、現場に材料を搬入し、建て方を行ないました。 現場では、軸組みの状況を見ることができます。
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