甲府市歴史公園 市民現場見学会
■日時:平成18年7月16日午後1時30分〜2時30分 ■場所:現地 ■主催:甲府市教育委員会 ■見学会で市教委担当者が説明した甲府城歴史公園を理解するための10ポイント: 1.甲府城は徳川家康によって築城が計画され、家康の代官である平岩親吉が縄張りをした。その後豊臣秀吉の家臣加藤光泰が甲府に封じられ、築城が本格化した。続いて浅野長政・幸長により、関ヶ原合戦直前頃完成した。豊臣が江戸の徳川家康を監視するため築いた拠点の城が甲府城。非常に大きい。その後徳川幕府の時代になると、江戸を守る西側の拠点の城となった城の規模は通常の城と違い、非常に広い。甲府城は豊臣、徳川の両方から重視された。 2.甲府城は、もとが一条小山の上に築かれた城なので、平山城である。出入り口の門は大手門、山手門、柳門の3カ所あった。山手門は現在復元中。山手門は現在の県庁南のスクランブル交差点あたり、また柳門は現在の県庁北別館の西側あたりにあった。 3.甲府城は江戸幕府の権力の象徴であったため、明治新政府の権威を示すために破却され、鉄道、県庁、甲府中学などが建設された。 4.明治36年に鉄道が開通したときの絵図で見ると、その当時山手門の石垣はまだ残されていた。天守閣を描いた絵図は見つかっていないが、しゃちほこ瓦が大量に出ていることなどから「天守閣はあった」と研究の集約がされている。 5.平成10年の発掘調査で石垣や堀が出てきたため、再開発の商業ビル計画が中止され、保存計画が立てられ、歴史文化公園が整備されることとなった。 6.東京方面から甲府に入ってくると、右に稲荷櫓、左に山手渡櫓門が見えて、特徴のある駅周辺の景観ができる。 7.山手御門の復元は400年前の築城時と同じ工法でやっている。 平成10年の発掘調査により明らかになった石垣遺構や18世紀の信頼できる史料である「楽只堂年録」を基に、柳沢吉保が城主だった18世紀初の姿に推定復元している。 8.土塀も400年前の工法で、竹、縄を編んだものに土を塗り重ね、仕上げに真っ白な漆喰とする。 9.堀の復元はしない。発掘調査で分かった堀の位置に芝生を養生する。 10.渡櫓門の柱は300〜500年の樹齢のケヤキ材とした。木目がきれいで、耐久性があるから。昔は柱を土の上に立てたが、今回はコンクリートの基礎の上にアンカーボルトで固定している。
■今回の市民見学会で公開された山手門復元工事の概要 1.土木工事 ・造成面積 A=6,039u ・地盤改良工 一式 ・石積工 一式 ・排水工 一式
2.建築工事 ・山手渡櫓門復元(やまのてわたりやぐらもんふくげん)(木造2階建 建築面積102.82u延べ面積99.71u) 屋根:本瓦葺(ほんがわらぶき) 外壁:漆喰塗大壁(しっくいぬりおおかべ) ・山手門復元(木造平屋建袖塀付) 屋根:本瓦葺(ほんかわらぶき) 外壁:漆喰塗(大壁) ・土塀復元(木造本瓦葺漆喰塗大壁)(もくぞうほんがわらぷきしっくいぬりおおかべ) 延長69.OOm
見学会配付資料と現場写真は、NPO法人地域資料デジタル化研究会が市教委から許可をいただいて、本ライブラリーに掲載いたします。 (注記:著作権は甲府市教育委員会にあります。また、原資料の明らかな誤字脱字は修正し、利用者が読みやすくするために段落間に空白行が挿入してあります。)
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