地域: 山梨県甲府市 (登録日: 2015/06/03 更新日: 2022/12/29)
昭和期の山梨で、県民文化の創造と経済振興の「殿堂」として、県民の夢と期待を担った「山梨県県民会館」は、2015(平成27)年7月、解体撤去される。東京タワーの設計者として、昭和の名建築の数々を手がけた山梨県出身の内藤多仲が設計し、大成建設が施工した、山梨における昭和の名建築だった。 県民会館は、山梨県内の商工観光団体などの要望を受けて、県が建設し、県内で初の大型公会堂と、経済団体のための貸し事務所ビルの2つの部分で構成されていた。公会堂部分は1957(昭和32)年6月4日に完成し、1600人収容の大ホール、小ホール、映画講堂、和室があり、総面積6000平方m、工費3億5700万円だった。 貸しビルは1960(昭和35)年4月30日、県費で完成し、工費3億575万円だった。鉄筋コンクリート造り地下1階、地上8階、総面積は6533平方mで、その当時、山梨県で最も高い高層ビルだった。地下には県内で初めての公共展覧会場、7階に結婚式場、最上階にレストラン山梨会館が開業し、当初は都会風のあこがれの結婚式場としても話題を呼んだ。 県民会館の完成により、山梨県で初めて屋内で大人数のイベントや展覧会、作品発表会が開催できるようになり、芸能、芸術文化、講演などさまざまな大型催事の開催が可能となった。 県民会館建設は、当時の天野久県政の目指す県土建設のシンボル事業に位置づけられ、天野知事が同時期に建設した県庁新館と、双璧をなすものだった。 公会堂の建設費は全額、県民からの寄付を仰いだ。富士川水系の水利権を取得した日本軽金属株式会社からの1億円などの寄付があった。全額寄付で賄ったことには批判もあったという。 県民会館事務ビルの玄関口には、天野知事が揮毫した「協和」の文字が掲げられているが、これは公会堂が県民の寄付協力で出来たことを記念した意味があると思われる。 県民会館を設計したのは、東京タワーを設計した内藤多仲(1986〜1970、中巨摩郡榊村=現在の南アルプス市=出身)。東京タワーの完成は1958(昭和33)年であり、内藤にとって同時期の記念すべき作品だった。内藤は、県民会館とともに同時期に甲府市役所1号館(本館)(1961年)、山梨県庁新館(1963年)と立て続けに山梨の県都甲府を代表するランドマークとなる建築を設計している。 貸しビルの入居団体は、平成元年当時、日本赤十字社山梨県支部、山梨21世紀産業開発機構、山梨県林業公社、山梨県立文学館準備室、山梨県住宅供給公社、山梨県薬剤師会、山梨県ニット工業会、山梨県行政書士会、山梨県障害者雇用促進協会、山梨県中小企業振興公社、山梨県農地開発公社、山梨県経営者協会、山梨県蚕種協会、山梨県企業局、山梨県土地開発公社など。 公会堂部分は、施設の老朽化と代替の公共ホールの建設により、使用頻度が減少したため、1999(平成11)年に取り壊された。跡地は県庁駐車場となった。 山梨県民会館の公共ホールとしての機能は、時代の進展とともに、舞台の狭隘や音響効果などの面で、交響楽団演奏会などハイレベルの芸術文化鑑賞の場としての対応を求められるようになり、田辺国男知事の時代に県民文化ホールとして、いったん甲府駅北口の県有地に建設が決まった。しかし、直後の知事選で勝利した望月幸明知事が白紙撤回し、甲府市中心街から離れた甲府二高跡地に1982(昭和57)年、山梨県民文化ホールとして建設された。(出典:山梨日日新聞、山梨百科事典ほか)