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謎に包まれた盃状穴 その最新の調査研究の概要
日本の盃状穴
盃状穴とは、路傍に祀られている道祖神、六地蔵、庚申塔などの石造物に施された盃のような丸いくぼみで、古墳時代から近世まで全国で存在が確認されている。同じように石造物に施された盃状穴は、世界中で観察されている。 ところが、盃状穴の成立について、誰が、いつ、何のために、どのようにして作ったのか、確かな伝承が乏しく、呪術、民間信仰、民間医療などと推察されているが、学術的に解明されてはいない。盃状穴は地域社会で日常的に目にすることができる遺物であるが、その成立は全くの謎に包まれている。 盃状穴のできた年代が推定できる石造物で国内最古ではないか、とされる石祠型道祖神が山梨市堀内にある。山梨県の石神石仏研究家・故中沢厚氏の『山梨県の道祖神』 (1973年) によると、この道祖神は、小さな丸石3個を納めた石祠の正面に「奉立万治三庚子二月日」(1660年)という造立年がはっきり読み取れ、道祖神の石祠・石像を問わず、造立年の残されたものでは最古のもの、現在もこれを越えるものが発見されていないとされる。 中澤氏は、この石祠の特徴について、屋根といわず台石といわず、長年子供らが石ころを握ってコツンコツンとつつきくぼめて、原形を止めないほどである、と報告されている。
▼01 年代がわかる国内最古の石祠型道祖神 |
▼02 年代がわかる国内最古の石祠型道祖神 |
▼03 年代がわかる国内最古の石祠型道祖神 |
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海外の盃状穴
盃状穴の存在は海外でも知られており、英語圏では岩の表面に人工的に作られた杯状の窪みとして、Rock cupule(岩のキューピュール)またはCup mark(カップマーク)と呼ばれる。通例では、岩の表面に、手持ちのハンマー状のストーンで直接打撃して作られたと考えられている。 キューピュールは、南極を除くすべての大陸で発見されており、世界で先史時代から続く、最も一般的なロックアートのモチーフであると広く考えられている。前期旧石器時代から20世紀にかけて制作され、穴の直径は通常 1.5 〜 10 センチメートルの物が多く観察されている。 ヨーロッパでは、杯状の穴の周りをいくつもの同心円の溝で囲んでいる遺物が多く見られるという。時には、直線の溝が杯状の穴の中央から外へ伸びている例もある。この場合、カップ・アンド・リング・マークと呼ばれる。 実際に複製を作る実験研究により、その作成に必要な時間は岩石の種類によって大きく異なることが示されている。風化した砂岩では12 mmの深さのカップを作成するのに1分程度でできる場合があるが、風化していない珪岩ではハンマー・ストーンの打撃が45,000回から60,000回かかるという。 海外のキューピュールについて、さまざまな調査研究が行われているが、現在まで定説はなく、その目的や重要性については、はっきりとしたことはほとんどわかっていない。 (この項目の出典:WIKIPEDIA英語版)
▼01 スラッグスタ岩絵に残る多数のカップマーク |
▼02 カップマークとリングマーク( Googleマップ) |
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盃状穴調査ネットワークの結成
2019年、山梨県埋蔵文化財センターの職員らが遺跡の調査研究を通じて、盃状穴の文化財としての価値が定まっていないことに注目し、全国的に関連する研究者の調査ネットワークを結成して、事例の広域収集とともに、文化財としての盃状穴の評価を探る構想が生まれた。 翌2020年4月、東京、神奈川、山梨の考古学、埋蔵文化財の調査にかかわる研究者が集まり、「盃状穴調査ネットワーク」が発足した。会則では会員登録は行わず、本会の目的、事業に賛同したものをもって構成することとした。 同会の代表には元東京都埋蔵文化財センター斎藤進氏、山梨県庁宮里学氏が選ばれた。
盃状穴第1回シンポジウムの開催
盃状穴調査ネットワークは、謎の多い盃状穴の各地の事例、その意味などを報告し、意見交換を行う第1回シンポジウムを、2024年10月26、27日、山梨県で開催した。盃状穴をテーマにしたシンポジウムは、日本国内で初めてとみられる。26日は甲府市、山梨大学甲府キャンパスで研究会、27日は甲州市内で盃状穴が残る石造物の巡見会が行われた。 第1回シンポジウムで発表された各地の研究者による報告で、現在の国内での盃状穴に関する知見考察がほぼ網羅され、学術的には非常に貴重な研究会となった。 NPO地域資料デジタル化研究会ではアーカイブ班メンバーがこのシンポジウムに参加し、会場で発表された調査研究報告の概要について、会場で使用された資料集(盃状穴調査ネットワーク編)などを引用しながら、情報の記録と共有を図ることとした。
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▼01 盃状穴第1回シンポジウムのチラシ(表) |
▼02 盃状穴第1回シンポジウムのチラシ(裏) |
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盃状穴第1回シンポジウムでの報告概要
1992年に浅草寺の六地蔵(石燈籠、東京都指定旧跡)を記録調査したことがあり、台座U無数の穴があった。そのときは自然にできたものなのか、人工のものなのか認識がなかった。その後、2020年に山梨県の宮里さんから声をかけられ、山梨、東京、神奈川の研究者により調査ネットワークの会が発足した。 基本的な調査・手法は(1)盃状穴は古代から存在するが、研究会では中世、近世のものを基本とする(2)調査内容は盃状穴の年代、場所、非対象物(どんなものに穴があけられたか)、どんな内容(形状)、目的を探り、記録する(3)学術的に文化財としての盃状穴の評価(4)事例収集のためネットワークを広げ、成果の情報公開、共有を図っていく(5)巡見会、シンポジウムの開催−などに取り組んでいく。 (元東京都埋蔵文化財センター 斎藤進氏)
・盃状穴という言葉を最初に使ったのはS.ギューディオンの「The Eternal Present:Beginning of Art」(1962年)の邦訳である「永遠の現在:美術の起源」(東大出版会)の訳者である江上波夫、木村重信両氏。同書のなかで「盃状のくぼみ」、「盃状の穴」、「盃状穴」という訳語を使った。 ・1980年に山口県山口市の神田山第1号墳の蓋石に多数の小凹穴が発見され、翌年、山口市教育委員会編「神田山石棺」埋蔵文化財調査報告書に「盃状穴の系統とその象徴的意味」(国分直一氏)と題する論文が投稿され、小凹穴を「盃状穴」と命名され、古墳時代から存在していることが明らかにされた。 ・日本の盃状穴は古墳時代から連綿として続けられたものではない。農民の生活が自立し、余裕が出てきた江戸期以降に道祖神、庚申塔などの民間信仰と石造物が作られるようになって、盃状穴が現れてきた。特に江戸期末期には全国的に流行した。明治、大正には廃れてきた。 ・過去の調査では、石造物に穴を穿つ理由、目的などは不明で、高齢者など強いて聞けば、「子どもの頃に凹穴で草や木の実などを搗いて遊んだ」などの 盃状穴と子供の関係が報告されている。また、石造物を穿って得られた石の粉をお茶や白湯に入れて飲むと病気にならない、などの言い伝えがあるという。 (元東京都埋蔵文化財センター 福田敏一氏)
・盃状穴は果たして石造物に穴を穿ったものなのか? 人は神性な場所では神仏への儀礼(挨拶)として「音」を供養することがあり、石造物を叩くこともある。(東京・浅草寺の「かんかん地蔵」の例では、姿の原型をほとんど残していない。古来よりお参りの方が付随の『小石』で地蔵を叩いてお願いごとをする。石で軽く打ち祈ると『カンカン』という音が鳴るので俗にこのように称されている。仏壇の前でリンを鳴らす風習とも関連がありそう) ・盃状穴は神社、寺院とも存在が確認できる。鳥居、常夜燈の台石、手水鉢などに見られ、水路にかかる石橋にも確認できる。石造物ばかりでなく、木造の門やお堂の敷居にみられることもある ・石を叩いて盃状穴を作れるか試みた。庭の踏み石を小さな丸石で叩いた。3000回叩いた頃、カウンターが壊れ、さらに新品を買って1万回に達したが、穴は径3cm、深さは2mmまで至らなかった。盃状穴は一人で叩いて簡単にできたものではない ・盃状穴は全国的には、北海道から鹿児島の奄美大島まで確認されている (元東京都日野市教育委員会 清野利明氏)
・山梨県埋蔵文化財センターの調べでは、盃状穴がみられる石造物は、多い順に六地蔵幢、石祠(神社摂社、道祖神など)、道祖神(丸石など)、手水鉢、石仏(地蔵、観音)など。 ・山梨県内の盃状穴は中世から江戸時代に造営された石造物に集中している。 ・石造物以外にも、山梨市の大井俣窪八幡神社の木造神門貫部分、敷居部分に複数の盃状穴が確認できた。韮崎市のJR中央線旧穴山トンネルの煉瓦壁にも盃状穴と思われる穴が穿たれている ・山梨は他の地域と比べて丸石道祖神の分布が多いことで知られている。その中で甲府盆地を中心とする国中地域の調査では、盃状穴は道祖神の基壇部の四隅や外周、または基壇全面に穿たれている例が多く確認された。丸石そのものに盃状穴が穿たれている例は未確認である。盃状穴の上に丸石が置かれている例がある ・個人的に調査で感じたことは、山梨では著名な寺社においては盃状穴をあまり見かけることはなく、地域の鎮守や路傍の石造物に盃状穴が穿たれているという印象。盃状穴にはある種の秘匿性があることに関係しているのではないか。 (山梨県埋蔵文化財センター 内田祥一氏)
・盃状穴は人の集まりやすい場所、人通りの多い場所(集落の出入り口、集落の中心など)に多く見られる。神奈川の地域的傾向では街道筋に存在する ・盃状穴の対象物として道祖神、道標に着目したい ・盃状穴の行為を行う人々・集団とは、地域の人々とは限らない。江戸期になって人々の旅に出るようになり、伊勢参り、社寺参詣、霊場巡礼などが行われた。参詣者、巡礼者が道祖神、道標と道中安全のまじないなどの可能性 ・衰退の背景は明治維新と文明開化、近代医学、政府による民間信仰の否定など ・研究課題のキーワード;「街道」「巡礼道・参詣道」「道中安全」「まじない」「病平癒」「道祖神」「明治維新と文明開化」 (神奈川県秦野市生涯学習課 天野賢一氏)
・盃状穴の名称については、その形状から凹穴(くぼみ穴)、凹石、凹穴石、性穴、石盆などの名称でも呼ばれる。一般的には欧州の「カップマーク」を邦訳した「盃状穴」が用いられている。 ・長年盃状穴の調査を続けられている三浦孝一氏の説では「古代と中世、近世の盃状穴はその形容が同一であっても、厳密には盃状穴と呼べるか否か疑問である」として、縄文から古墳時代のものを一義的盃状穴、鎌倉時代以降のものを二義的盃状穴と分類呼称している ・大阪泉大津市を中心に調査された辻川季三郎氏の説では、盃状穴ではなく「石盆」と呼称している。その理由は「古代の呪術信仰の時代ならともかく、社寺における(石造物の)窪みは歴史時代後半のものばかりである。これらの造形には新しい近世の思想が含まれていることを見逃してはいけないから」という。 ・穿孔行為の目的、理由について決め手となる伝承が乏しく、明確な答えも出ていない。そのなかで、安産、病気平癒の願掛けの伝承がある。寺社の常夜燈や水盤などに杯状、盆状の小さな水盆を刻み、清水を張って子安様、神仏を招き安産を祈願する妊婦の信仰(辻川氏の石盆信仰説) ・広島県呉市では蒲刈町の善正寺、春日神社の盃状穴、広町善通寺境内の盃状穴のある手水鉢が市有形民俗文化財として登録されている。呉市の文化財指定は先進事例として大いに評価されるが、海外や原始・古代の盃状穴と同系列でつながっているとの誤解を招く恐れのある説明がされている。 (滋賀県栗東市出土文化財センター 佐伯英樹氏)
・観察方法:盃状穴に限らず物質資料から情報を引き出す資料の観察が重要。(1)盃状穴がある石造物の場所、(2)石造物の種類、(3)盃状穴の数、位置、(4)盃状穴の形、(5)盃状穴の大きさ、(6)石材、(7)その他の所見 ・記録方法:上記の(1)についてはスマートホンで位置情報付きの写真を撮影することにより、位置情報を取得できる。上記(2)から(7)までのきろくについては、3次元計測による3Dモデルの作成が適当である。3次元計測にはレーザースキャナーを用いる方法とカメラで複数枚を撮影する方法(フォトグラメトリー)がある。 ・3次元計測の実際ではレーザースキャナーより、撮影対象物の大きさを問わないフォトグラメトリが適している。 ・3次元計測に3Dモデルの作成により、現地にいかなくても資料の観察を行うことが可能になる。 (國學院大學大学院 谷和奏氏)
・山梨県では令和元年以降、リニア中央新幹線の建設事業のため、甲府盆地南部で本線計画地を対象とした埋蔵文化財の調査が本格化した。その調査の前から埋蔵文化財の所在を把握するため、周辺で現地踏査が行われた。その過程で、道祖神、鳥居、手水鉢、石橋、石塔に不思議な窪み(盃状穴)を確認したのが、調査研究の契機となった。 ・県内の事例では、道祖神や鳥居など、道沿いの身近な場所にある石造物に盃状穴があるが、すべてに盃状穴があるわけではない。中世の六地蔵石幢や鳥居に盃状穴が多く見られ、近世所産ののものには盃状穴が少ない ・身近な場所でなく距離があっても明確な目的を持って盃状穴を彫る事例として東京都墨田区両国の回向院の鼠小僧の墓所がある。戒名「教覚速善居士」が受験生にとって意味がある(受験生など参拝者が石の粉を削って持ち帰り、お守りにするのだという)。盃状穴を彫る人は地域的、日常的に行うものと、特定の目的をもって行う者がいると考えられる ・盃状穴を彫った担い手を特定するために多くのヒアリングを行った。その例では民間療法、願い事、(子どもの)遊び、祭事の化粧など過去からの調査研究の指摘とおおよそ同じだった。 ・盃状穴が近世から近代にかけて作られたものであれば実際の行為者、具体的な伝承、証言に触れてもよさそうだが、実際はほぼなかったのが不思議。特定の事例以外は、現代の地域社会で継承や認識されていない ・私も含め盃状穴調査ネットワークの関係者には盃状穴を彫る実験を行った者がいる。一様に盃状穴は簡単には彫れないという体験を持った。盃状穴が身近に多数存在するのに、カンカンと音をたてながら本当に人しれず彫られたのか ・さまざまな思いや目的を持って彫られた盃状穴は、その対象物(道祖神、六地蔵など)がもつ「謂れ」が関係しているように思われる ・わが国の歴史において、盃状穴がどのような意味を持つのか、調査研究で明らかにしたい (山梨県庁 宮里学氏)
盃状穴第1回シンポジウムの巡見会 2024年10月27日 山梨県甲州市塩山
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▼01 丸石道祖神と百万遍定命所 |
▼02 菅田天神社前の丸石道祖神と庚申塔 |
▼03 石に彫られた盃状穴 |
▼04 石に彫られた盃状穴 |
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▼05 丸石神 |
▼06 原形をとどめないほど削られた石像 |
▼07 形をとどめないほど削られた石像 |
▼08 形をとどめないほど削られた石像 |
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▼09 形をとどめないほど削られた石像 |
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山梨県甲斐市内の盃状穴が彫られた道祖神
▼01 石祠型道祖神の盃状穴 |
▼02 丸石道祖神の盃状穴 |
▼03 丸石道祖神の盃状穴 |
▼04 丸石道祖神の盃状穴 |
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▼05 丸石道祖神の盃状穴 |
▼06 石祠型道祖神の盃状穴 |
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