「山梨ふるさとの残像」(2005年01月発行 山梨日日新聞社)より
大正4年4月26日、山梨県中巨摩郡国母村上条に生まれる。東京神田電機学校中退。22才の頃から写真コンテストに応募し始める。戦争中は写真報国会会員として、出征兵士、留守家族等の慰問写真を撮る。戦後復興期、貧しい生活の中ひたすら働いて生きる喜びを見つけようとした農村の人々の姿を写す。また経済発展の時代には変わりゆく人々の暮らし振りをレンズに収める。 昭和25、26年「パリ国際写真サロン」入選、昭和36年「現代の日本写真コンクール」優秀賞受賞など、長年にわたり多数の賞を受ける。山梨写真研究会会長、山梨写真団体連絡協議会会長、甲府市文化協会副会長、二科会写真部山梨支部理事などを歴任すると共に、「山日フォトサロン」審査員などを務める。 写真集「甲州街道」(監修)、「甲州の祭り」(共同制作)、「山梨ふるさとの残像」を出版。土門拳、木村伊兵衛、ユージン・スミス、荒木経惟等と共に「子どもたちの日々」(写真集)に写真2枚が掲載。 平成14年5月5日、87才で病没。
「山梨人事名鑑」(1995年12月発行 自治行政調査会)より
中山梅三 大正14年4月26日生
平成六年山梨県文化功労実賞受賞者 平成七年甲府市民文化奨励賞受賞者 山梨写真研究会会長・相談役 山梨県写真団体連絡協議会会長・相談役 二科会写真部山梨支部理事 山梨県高校写真連盟技術顧問・相談役 山梨県芸術祭写真部専門委員 山梨県勤労者美術展審査委員 山梨県立美術館建設促進連盟写真部代表委員及び建築専門委員 甲府市文化協会副会長 甲府市公民館審議委員 甲州の祭り写真集出版共同制作主宰 山梨県芸術祭30周年記念誌編集委員 ラッキーフォト経営
甲府市太田町9-11番地 TEL(0552)33-8544
氏は中巨摩郡国母村の旧家、中山白太郎氏の六男として生まれ、国母尋常高等小学校高等科卒業。水晶工業に従事後、昭和8年東洋通信機(株)長原研究所に入社、無線用水晶発振子、短波長波電子兵器製造に携わる。太平洋戦争中は、神田電機学校夜間部に通学して無線工学を学んでいたが、戦争激化で2年で退学し、徴用者の指導監督(技術第三課班長にて)。戦争末期、焼夷弾攻撃を受けて、研究所も住居も破壊され、乞食同然の姿で郷里にたどり着く。戦後、履物問屋の叔父と兄義春氏からの5万円を借りて、太田町に55坪を買い、5坪のバラックを建て、23年6月ラッキー履物店を開業。当時、戦争、食糧難と、苦しい時代の氏を支えてきたのが趣味の写真であった。社会環境が次第に安定方向に移るに及び、山梨カメラリーグに入会し、商売の合間に写真芸術活動に傾注、やがて県写真界をリード。山梨写友会結成・常任理事(24年)、山梨写真作家クラブ結成・副理事長(25年)、月光会山梨支部結成(27年支部長―後山梨写真研究会会長52年まで)。写真熱も県下に広がる中で、山日フォトサロンを通して審査、指導育成に16年間尽力。県芸術祭も活発になり芸術祭運営委員となり、やがて高度経済成長下、美術館建設の運動が盛りあがる。堀内孝恵、荒井碧堂氏と共に期成会を結成して10年間強力な運動を進め、田辺知事の下、建設委員として働き、52年11月美術館オープンに至る。また個人的には62年にラッキーフォトスタジオを設立し、写真作家として大活躍をしてきている。パリ国際写真サロン入選2回。サンデー毎日賞。富士フォトコンテスト銀賞。二科会関東二科展入選2回。平成5年山梨ふるさとの残像写真集出版。出版多数で、個展9回(4回目以降カラー)の実力者。よって60年県勤労者美術展30年記念功労賞。平成6年山梨県文化功労実賞。平成7年甲府市民文化奨励賞を受けている。【趣味】写真【家庭】夫人―政子さん
|