長野県への冬季オリンピック招致の夢は、戦前からのものだった。1940年の夏季オリンピックの開催都市に東京が有力視され、当時のオリンピック憲章に「夏季大会開催国に冬季大会の選択権を与える」という憲章があり、国内で冬季大会候補地争いが盛んになった。 長野県からは、志賀高原、菅平、霧ヶ峰、乗鞍などが名乗りを上げれ、他にも、札幌、日光が名乗りを上げ、互いに猛運動が展開された。中でも、国際観光都市に選定された志賀高原は、本命・札幌の強敵になった。しかし、「都市開催の条件」に満たずに失格し、札幌に決定した。 だが、当時の日本は日中戦争で国内は混乱し、日本は東京・札幌ともに、開催地を返上することになった。 これが、1度目のチャレンジとなった。
|