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西川町石碑石仏資料

攝社三神社

カテゴリ: 社標 地域: 岩根沢 年代: 昭和1926〜
(2004/01/27 更新日: 2007/05/22)


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建立年:昭和6年  高320×巾46.5


日月寺(月山出羽湯殿山三山神社)
御祭神は月読命、稲倉魂命、大山祇命、大国主命、少彦名命。創立年代は嘉応元年(一一六九)
例 祭九月十三日
岩根沢は出羽三山八方七口の一つの登山口として、古い歴史をもっている。しかし、寛永年間における湯殿山別当真言四か寺と天台羽黒側の争いの時、羽黒側より提出された文書によれば、岩根沢の日月寺は嘉応元年に建立されたと
なっている。また『肘折阿吽院文書』(安政四年九月写本)―湯殿山別当口開基調―には、嘉禄二年(一二二六)の南北の頃、京都よりきたる清蔵行人が、月山への道を開いた事が記録されており、それから約七〇年後の嘉慶元年(一三〇二)に日月寺が創建されたことになっている。さらにその時代がくだって戦国時代のころは、庄内と最上地方の往来がさかんになり、六十里越街道が整備された。また岩根沢より月山越の登山道も、六十里越街道の脇街道のような役割をはたしていた。また羽黒より江戸におもむく場合は、岩根沢まで山支度をしてきて、ここで衣服を改めて江戸に向ったとの話もある。最上氏が庄内地方を領有するようになると、多くの堂社が寄進により修築され、それとともに、山形と羽黒との往来も盛んになった。その通路は山形より白岩を経て、追分より岩根沢に登り、月山を経て羽黒に行った。このように山形と羽黒を結ぶ中継地にあたるので、最上家と日月寺の関係も深くなり、同家の保護を受けて日月寺も次第に大きくなった。その当時、羽黒の高僧は一度日月寺の住職を務め、その後に羽黒の別当になることが通例となっていた。『羽黒山中興覚書』によると、『往古より最上岩根沢日月寺は、羽黒山別当部屋住の寺である。慶俊、宥源、宥俊、天宥までは、いずれも日月寺の住職を務めた後に、羽黒山の別当になっていることが記されている。羽黒山の中興として活躍した天宥別当は、七歳にして日月寺に入り、宥俊の弟子となって宥誉という法名をいただき、修行時代を日月寺で過ごしている。 宥誉は羽黒山の別当に就任してから、家康・秀忠・家光の三代に仕えて、黒衣の宰相といわれた天海僧正の弟子となり、天の一字を頂戴して天宥と改名した。なお寛文九年(一六六九)、天宥流罪の後に羽黒山の別当になった圭海の時代は、弟子の圭純を日月寺の住職にしており、東叡山の直末格となり、本坊同行という格式を与えられている。
 
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