西の丸
この庭園は、姫路城主本多忠政が、大坂夏の陣のあと将軍徳川秀忠の長女千姫をめとった息子忠刻のために、元和4年(1618)に立派な御殿を建てたところで、「中書丸」といわれていました。中書とは、忠刻の官職中務大輔の中国風の名称です。 御殿を囲むようにして築かれた300m近い長屋は通称「百間廊下」と呼ばれています。そのうち、ヨの私櫓から北の部分は長局で、小さな部屋が廊下に面して並んでいます。中書丸の御殿で働く奥女中が住んでいたとみられます。 その右(北)端の建物が化粧櫓で、大きく開放された窓や床の間、畳敷きなど、他の無骨な櫓に比べると、人が居住できる拵えとなっています。千姫が男山にある天神社を拝むために西の丸に来た際に、身づくろいをしたり、休息した場所といわれています。
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