安田義定(やすだ よしさだ)は、平安時代末期の源平合戦で、源義経と共に平家を討ち、鎌倉幕府の礎を築いた甲斐国(山梨県)の勇将です。また遠江守として遠江国を支配しました。 安田義定 長承3年3月10日(1134年4月6日)〜建久5年8月19日(1194年9月5日)
義定は甲斐源氏の黎明期にあって、全国に名をとどろかした最初の有力な武将であり、源平合戦では、源氏軍の大将格として義経と行動をともにし、平家追討に大きな功績をあげ、源頼朝の鎌倉幕府創建に大きく貢献したのです。しかし、その最期は義定の台頭を恐れた頼朝の猜疑心のために、親子ともども謀殺され、同じく頼朝により謀殺された義経と同じ無念の運命をたどったのでした。 郷里山梨では、甲斐源氏の末裔である武田信玄の功績の陰にかくれて義定の功績はあまり知られておりません。また、山梨市下井尻に遺された義定公主従の墓所は、県指定文化財として、立派な五輪塔があり、県下有数の規模を誇りますが、今では地域でも忘れられた存在となっています。このため、NPO地域資料デジタル化研究会では、郷土の大切な記憶として関連事績をまとめることとしました。 (NPO地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブプロジェクト)
源頼朝により滅ぼされた安田義定主従の墓所は、山梨市下井尻、雲光寺にあり、県指定有形文化財となっている。義定は、保元3年(1158)安田館の鬼門方向にあたる井尻の地(現在の山梨市下井尻)に菩提寺として、雲光寺を開創した。また、後に義定が遠江守に任ぜられてから、元暦元年(1184)安田一門の菩提寺として放光寺(塩山市藤木)も開創している。ともに「光」が菩提寺のキーワードとなっている。 墓所前に山梨県が立てた「安田一族之墓 山梨県」の墓標がある。墓標の側面には次のように刻まれている。 『昭和一六年十二月十五日建之』 『義定ハ源清光ノ男ナリ源頼朝ヲ援ケ平氏ヲ討チ遠江守ニ任ス建久五年八月故アリテ頼朝ニ攻ラレ自刃シ父子此處ニ■(外字ホオム)ラル後雲光寺殿故州刺史源法光大禅定門ト謚ス貞治二年十一月武田氏供養塔ヲ建ツ』
また、墓標の隣に「県指定有形文化財 安田氏五輪塔付宝篋印塔」の由緒掲示板が建てられていて、以下の内容が記されている。
『県指定有形文化財 安田氏五輪塔付宝篋印塔 昭和四十六年四月八日指定 山梨市下井尻673 雲光寺所有 この三基の五輪塔は甲斐源氏の雄安田義定父子の墓標で、中央が義定、向かって左が義資、右が義季のものと言われている。(添付写真参照) 義定は源頼朝と共に平氏を討ち、遠江守に任ぜられ、広く峡東地方を所領としたが、謀反の廉で建久五年(1194)頼朝に攻め滅ぼされた。 各塔は下部から地・水・火・風・空の五輪を象徴している。最上部の空輪は平安調の団形、風輪は中央塔が桝形で他は平底で腰の深い椀形を示す。 火輪の屋根の勾配はゆるやかで反りが深く、軒巾は塔全体のつり合いから、やや大きいと思われるが、一種の軽快感を与える効果をもっている。水輪は球状体の上下を切り背が低いので重量感を受ける反面、安定を増す要素ともなっている。 三基とも水輪の四面に梵字が刻まれており、鎌倉中期の代表作として石像美術上貴重な構造である。 宝篋印塔は基礎に「貞治二年(1363) 卯十一月 武田氏・・・(他不明)」があり、武田信成が安田一族のため建立したもので、法要の事実を伝える有力な史実と言える。 山梨県教育委員会』
|