人々の暮らしと横浜開港 もともと養蚕は、紀元前100年頃には中国大陸から北九州に伝えられ、近畿、東海、中部、関東、東北へとだんだんと広まっていきました。江戸時代には各地で盛んに養蚕が行われ、横浜開港頃には輸出用生糸の生産基盤がほぼ出来上がっていました。特に、東北地方から山梨・長野・群馬・埼玉などの各県に至る広い地域で盛んに養蚕が行われていました。横浜開港以降、海外の生糸需要の高まりとともに国内の養蚕は一段と盛んになりました。養蚕は農家の生活を支える重要な産業となり、また、国家の外資を得るための主要な産業でもあったのです。 養蚕農家は、蚕を「お蚕さま」と呼び、大切に育てました。蚕は一日に、10〜12回も桑を与える時期もあり、農家の娘さんたちは桑畑で桑の葉を取り、それを蚕に与える仕事に追われていました。 養蚕は過酷な労働でしたが、多くの現金収入が得られたため、農家では温度や湿度の変化に気を配り、家族に一員のようにして「お蚕さま」とせいかつしていました。 生糸輸出が好況になると、農民たちの暮らしは様変わりし、養蚕農家ではおいしいものを食べ、娘さんたちは化粧をしたり、髪飾りをつけておしゃれもするようになりました。 こうして開港以降、昭和の戦後期に至るまで日本の主力産業となりましたが、農家の家計を支えてきた養蚕業は、高度経済成長期からの第2次産業、第3次産業の発達とともに賃金格差が生じ、農村からの労働力流出により衰退し、養蚕農家の数は激減していきました。 生糸づくりに捧げられた情熱〜蚕糸王国日本へ〜 日本の養蚕技術は、江戸時代から養蚕に情熱を捧げた人々や蚕種製造に携わる人々などによって研究され普及されるようになりました。すでにこの時代に蚕は温度湿度に影響されやすいことがわかり、幕末期には体温計にヒントを得て「蚕当計」(寒暖計)や乾湿に鋭敏に反応する植物「メカルガヤ」を用いた湿度計が発明され、人の感に頼らない科学的な養蚕飼育法が普及されはじめました。明治以降になると、我が国の養蚕技術は、蚕や桑の品種改良、蚕種の人工孵化法、桑栽培技術、夏蚕(なつご)や秋蚕(あきご)の飼育技術、蚕病防除技術などを確立し、(※1年に1度しか行えなかった養蚕が年に5回、6回まで飼育できるようになり繭の収穫量が激増した)目覚ましい発展を遂げ、養蚕王国日本を築き上げました。こうした養蚕技術の発展だけでなく、生糸を繰る製糸業も機械化が進められました。明治3年には我が国初めての器械製糸場が群馬前橋に、翌年には東京築地にも同じイタリー式の器械が導入され、明治5年に開設された官営富岡製糸場(フランス式)と共に、これら洋式製糸技術を全国に普及させ、近代的な殖産興業への転換を通じて文明開化の先駆けとなり、製糸業だけでなく、日本の産業全体の近代化を推し進めました。
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