沼田城は天文元年(1532年)沼田顕泰が約3年の歳月を費やして築城した。 当時は蔵内城のちに倉内城と称し沼田市街地発祥のかなめで当市の歴史の起点でもある。 築城して48年後の天文八年(1580)に武田勝頼の武将真田昌幸が入城し城の規模を広げた。 天正18年(1590年)に昌幸の嫡子信幸が城主となる。 関東北辺の小さな山城であったが、三方を急流と断崖に囲まれた自然の要塞であり、 また関東と越後、会津を結ぶ交通の要衝として、戦略的な価値は大きく、 しかも沼田氏の内紛により城主朝憲が謀殺されたため、北から上杉、南から北条、西から真田の各勢力が 進出し激しい争奪戦を展開した。 天正18年(1590年)真田家初代城主となった信之は城郭の拡張を行い二の丸、三の丸を築き、 水手曲輪に大門を建てた。 さらに慶長12年(1607年)五層の天守閣を造営し、その威容は天下の名城「霞城」と称された。 しかし、天和元年11月五代城主信直が改易となり、翌年正月幕府により威容を誇った名城は破壊された。 元禄16年(1703年)本多正永が幕府の交付金で城を再建し、その後黒田氏、土岐氏の居城となり 明治になって取りこわされた。 現在三の丸跡には学校・民家が建ち、本丸、二の丸跡は公園に変貌した。 (沼田市教育委員会)
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