日本初の輸出生糸は上田から
2012-05-28
安政6年(1859)6月、上田から横浜へ輸出用の生糸が送られた。
時の上田藩主松平忠固は、2回にわたり幕府の老中を務めた人である。その立場上、外国からの情報をより早く得ることのできた忠固は開国・貿易推進の姿勢を明らかにしていた。安政5年5月、幕府は翌6年6月に神奈川などの港を開き貿易開始を決定した。忠固は上田藩の産物を外国に売ることによって上田藩の財政を立て直そうと考えており、上田藩は後に幕末最大の貿易商となる江戸の中居重兵衛と安政6年の正月から貿易に関しての相談を始めた。
安政6年2月末、藩命を受けた城下商人原町鼠屋伊藤林之助らは江戸・横浜へ出立、上田藩江戸産物会所で外国貿易の準備にとりかかった。
同年3月、伊藤林之助は上田藩江戸屋敷の重役と打合せ、中居重兵衛とは頻繁に相談。4月、外国へ輸出しようとする上田藩の産物がほぼ決定。生糸、木綿、真綿、麻、うるし、紙、生蠟、傘、石炭油、松油、人参、麦粉、鉛、鋸、煙草などである。これが幕末における上田の産物? と驚かされるものも含まれている。5月には信州上田の地で、輸出用産物の集荷が盛んになる。
6月2日、横浜開港。この日以降外国船が入港。外国商人は20日前後から横浜へ上陸。江戸に居た伊藤林之助らの横浜通い、横浜泊が多くなる。
6月19日、中居屋が横浜の港に開店。朝一番に来店したイギリス商人は、並べられた上田産物中の「生糸」に注目し商談。林之助はこの情報を直ちに信州上田へ。
上田では早速「糸荷」を横浜へ発送。日本の生糸貿易が始まった。
7月、8月と糸荷の出荷量はうなぎのぼり。信州、上州、甲州、奥州などの商人は糸荷を大量に横浜に持ち込み、イギリス、フランス、オランダ、アメリカなどの商人へ売り込んでいく。以後、上田の生糸は「上田糸」「依田糸」としてヨーロッパへ、後にはアメリカへ輸出され続けた。
文責:阿部 勇
<関連項目>
●信州上田と横浜開港