信州上田と横浜開港 of 蚕都上田ものがたり

信州上田と横浜開港

2012-05-28
今からおよそ150年前、日本は大きな変革期を迎えました。
それまでの220年間、日本は外国との貿易や交流のできる場所や機会が非常に限られている「鎖国」という状態にありました。外国の商品を自由に買うことができたり、気軽に海外旅行に行ける現在とは全く違う国だったのです。

そんな変革期のターニングポイント(転換点)となったのが、1859年(安政6年)の「横浜開港」です。横浜という港を外国に向けて大きく開くことで、現在の「経済大国日本」「産業立国日本」につながる道がスタートしたと言っていいでしょう。

信州から遠く離れた横浜ですが、「横浜開港」には2人の信州人が大きな役割を果たしています。それが、佐久間象山と松平忠固です。

佐久間象山は、松代藩(現在の長野市周辺)の武士。象山が外国への門戸を開く場所を大都市(江戸、現在の東京)に近い「横浜」にすることを強く主張したことで、現在の日本を代表する港「横浜港」が生まれました。(それまで、外国の船が利用できる港は、九州の長崎や北海道の函館など江戸からは不便な場所ばかりでした)

松平忠固は、上田藩(現在の上田市周辺)藩主。この大変革期に老中という幕府(当時の政府)の重要な役職に就いていました。忠固は、“外国の植民地にされてしまわないためにも「鎖国」状態をやめ、外国へ門戸を開くべき”と主張し、反対派を押し切って「横浜開港」を実現させた立役者のひとりです。
また、忠固は横浜でいち早く外国との貿易を行うように上田藩の商人たち(伊藤林之助、町田吉五郎など)に指示し、上州(現在の群馬県)出身の商人・中居屋重兵衞に貿易を託して、その後、日本から外国へ輸出する商品の中心となる生糸の貿易を始めました。

中居屋が始めた貿易は大成功を収めます。上州(現在の群馬県)出身の中居屋重兵衞ですが、この成功の影にもまた、ひとりの信州人の存在があります。それが、中居屋の大番頭として商売を切り盛りしていた松田玄仲です。彼は、飯沼(現在の上田市生田)の生まれで、信州中から生糸を集め、外国から殺到する生糸の注文に応えたのです。

<関連項目>
●日本初の生糸輸出は上田から


<関連史料>
『原町問屋日記』
『飯沼区有文書』

<主要人物編>
真田幸貫(松代藩主、老中)
佐久間象山(松代藩士、幕府の海防に関わる)
松平忠固(忠優は旧名、上田藩主、老中)
中居屋重兵衞(生糸売込商)
松田玄仲(中居屋大番頭)
伊藤林之助(上田城下の生糸商人)
町田吉五郎(上田城下の生糸商人)

ページトップへ