草餅地蔵尊の由来 この地蔵は大変草餅の好きな地蔵様で、春、秋のお彼岸にはいつも口元がぼた餅や団子で汚れている。宝暦五年は「丑年の凶作」といって、それはそれはひどい冷害で春より秋まで一度もお天気は顔を出さなかったという。この為穀物は一切実らない、にもかかわらず年貢は強制、従って無数の餓死人が出た。他国から流れてくる乞食も限りなく村はずれの柳沢や間沢の辺りに野宿していたが疫病の為、バタバタと倒れていった。代官の指図によってこれ等の死骸を始めは恵林寺境内に丁重に葬っていたが犬や狼が掘出すのでたまらず、又次から次と無数の餓死人の急増によって、こんどは境内の奥に大きな穴を掘って投げ込んだ。この年例年にない程のウンカが大発生して稲穂にとりつき白穂にさせたが、この虫は恨みを抱きつつ飢餓道に陥って死んでいった人々の生まれ変わりであるとの事を言った。テフラ恵林寺の境内にあった石地蔵はこの年の餓死人を供養する為に村の人々が喜捨して建立したものであったという。 春秋のお彼岸の時に供えるぼた餅が仏になった人々にとって、何よりの供養となった事であろう。
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