志津の入口には口留番所があった。資料の上でも、文化六年(一八〇九)の「印鑑帳」が三冊残っているし、「御関所無御座候、御座候」口留番所(文久元年八月「御私領差障有無取調書上張」)「字志津、元番所屋敷壱畝歩」(明治六年十月「志津村畑屋敷地引帳」)と番所の存在を裏づけている。ここに番所があったと云われ、そこには旧六十里越街道の跡が明瞭に残り、笠の無い湯殿山常夜灯と6基の苔むした石碑が転がっている。常夜灯は、文化四年(一八〇七)八月信夫郡飯坂の行者によって湯殿山に奉納されたものである。それには「四月八日初、八月八日迄」と点灯の期間が示され、「為蚕万昌」と養蚕の発展が願われている。大井沢からもこの灯が見え「番所の灯がともった。」と話していたと云う。
信夫郡上大笹村 石工 今野悪吉 ■■■ 森山氏封衆 賀加 平三郎 文化四丁卯八月大吉日 四月八日初八月八日造 湯殿山 常夜燈 爲蠶當昌
|