間沢川の部落は、昔から鉱物林産物の宝庫として知られ文化文政の頃にも金山の栄えたことが伝えられている。然るに当時の六十里越街道に達する部落道路は、紫倉峠の山道にて交通にも運送にも極めて困難な状態にあった。明治三十年頃県道白岩鶴岡線が改良され太郎を通過するに及び間沢川より太郎に至る平坦な道路の開設を企画し明治三十二年秋菅野寅吉翁田井重兵翁等の発起により部落三十五戸全員一致して太郎小倉間六粁余りに巾員三米の新道を開設すべく間沢川新道開設同盟会を結成し翌三十三年工事に着工測量設計用地の取得人夫の提供二千余円に及ぶ資金の調達等語るに尽せぬ困難を極め年を経ること七ヵ年明治三十三年十月十五日永年の念願を達して竣工式を挙げたり時の部落民の喜びいかばかりなりしや憶えば少数の部落民が公の援助も得ずこの偉業を成し遂ぐ洵に至宝に価すこの道路は、その後小山見立三治等鉱山の開設により幾度か改修延長され現在町道若山太郎線として利用され最盛期には物資運送量数万屯に達し一般県道をしのぎ県下重要なる路線として、 利用される。さらに茲に明治百年を越え郷土を愛するぶらくみんは、先祖の偉業を偲び後世の繁栄を希い相語りてこのひを建つ。
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