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ミッチーのほぼ日記

[12/10/07]法円寺遺跡

カテゴリ: 大阪・真田氏ゆかりの地めぐり2012 地域: 大阪府
(登録日: 2014/10/03 更新日: 2024/02/22)

【CC-BY-NC-SA】

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記録日: 2012/10/07

法円坂建物群の説明を読んで、なるほどと思いました。私も以前から不思議に思っていたことに堺市の百舌鳥などに数多く存在する前方後円墳などの古墳の存在があります。場所的には海に面したエリアにあり、年代が下って飛鳥が都となり、やがて奈良に都が移ります。つまり、渡来人は海からやってきて次第に内陸に入り、日本の国づくりをしたと見ることもできます。従って、古墳を作った豪族たちは渡来人だったのではないか。韓国でも前方後円墳が発見され、どうもその説は本当らしいということになってきました。

そうした大陸との交渉の中でキーになる場所がここ難波津であるようです。真田幸村の物語もさることながら、もっと時代を遡った古代の国家づくり、という歴史背景にもフォーカスを当てたいものです。
 

説明板クリップ


法円坂建物群 5世紀の大型高床建物群

 瀬戸内海の水運により大陸と結び、淀川や大和川をさかのぼって古代の政治の中心である大和や河内に直結する難波は、交通の要地でした。その中心である上町台地の北端にあたるこの地から、1987年(昭和62)年に行なわれた発掘調査で5世紀後半頃の巨大な建物群が発見されました。
 16棟以上の高床建物が整然と建てられており、1棟あたりの規模は桁行(幅)が約10m、梁行(奥行き)は約9mです。面積は約90uと、当時としては極めて大規模な建物でした。柱配置の特徴から、屋根の形は入母屋造りになると思われます。
 建物群は東西方向に棟を揃え、厳密な計画のもとに建てられていました。百舌鳥や古市に巨大な古墳を築いた大王が、強大な権力を内外に誇示するためにつくったものと思われます。
 6世紀には、この付近一帯にたくさんの建物が建てられるようになります。難波津と呼ばれる港を中心として、このあたりは物資の一大集散地として発達しました。また中国や朝鮮からの外交使節を迎えたり、遣隋使や遣唐使が発着するなど、海外に開かれた玄関として古代史上に重要な位置を占めました。


法円坂遺跡 倉庫構造模型

 上町台地の北端にあたるこの地に、5世紀後半(古墳時代中期)、16棟以上の大型建物群が建てられた。建物は高床式倉庫と考えられている。1棟の大きさは90uもあり、当時としては最大級の規模であった。
 床を支える東柱と別に、巨大な屋根を支える柱が建物内部に立てられているところに構造上の特徴がある。すぐれた技術と設計手法によってつくられており、中国や朝鮮の影響が考えられる。
 この模型はその構造を縮尺1/20で表したものである。
 

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