浄土宗 総本山知恩院直末 松翁山円覚院 芳泉寺 (略)
上田城を西へ徒歩五分千曲川の旧跡「古舟の渡」を越え、北に向かう善光寺道の故地常福寺坂の上。往古、当山は左岸の三楽寺(安楽 常楽 長楽)と右岸の三福寺(大福 常福 眞福)の一山常福寺として『ふくらくおうげん福楽往還』の徴憑。 慶長五年(一六〇〇年)、上田藩祖眞田信之公(上田城主昌幸の嫡男、幸村の兄)は、その常福寺(現芳泉寺)に下之条村の全称庵主含霊様を迎えて菩提寺と定めた。そして九度山に蟄居する父と弟のもとへ『年々信州の四季の物』等が届いたのは公の正室小松姫様(本多忠勝娘、家康の養女)の心ばえであったという。昭和・平成の今日、北は秋田から南は鹿児島に及ぶ『真田六文会』の続柄不断の基礎者として、お姫様の中核的存在感は重い。 元和六年(一六二〇年)二月二十四日、公はお姫様(大連院殿様)のご逝去に『ああ、わが家のともしび消えたり』と嘆き、たもとうぞ。当山とお姫様の密葬の大導師不残上人御住持の勝願寺様(埼玉県鴻巣市)と真田氏ゆかりの正覚寺様(群馬県沼田市)の三ケ寺に宝筺印塔を建立し絵t分骨、更に当山には、お霊屋をも造立。その霊屋は信之公と倶に松代(皓月山 大英寺様)へ遷る。当山本堂南の弁天地は名残りの史跡。 元和八年(一六二二年)上田城主信之様(大鋒院殿様)は、長野市松代へ移封。十一月小諸城主仙石忠政公(法光院殿様)が入部。霊地常福寺を修営。翌春正月小諸市の松井山歓喜院宝仙寺から父秀久公(円覚院殿様)の遺骸を、小松姫様墓北隣へ改葬。円覚院芳泉寺と尊称、香華院と定めた。秀吉の小田原征伐の武勲者仙石氏の中興秀久公は伏見城中で大泥棒石川五右衛門を生け捕るなど○無の権兵衛さんで通る剛の者、秀吉は名品『千鳥之香炉』を褒美とした。仙石氏後裔は《率土の物品に非ず》と明治天皇に献上。 (以下略)
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