初回放送からもう30年も経ったことに驚きます。『四季・ユートピアノ』(1980年)を見て以来、佐々木昭一郎作品には魅せられ続けてきました。『四季』に続いて制作されたのが川の3部作『川の流れはバイオリンの音』(1982年)『アンダルシアの虹』(1983年)『川・音の光』(1984年)です。
この4作の中で最も肩の力が抜けてうまくできたように思えるのが『アンダルシアの虹』です。物語はピアノ調律師のA子がスペインのアンダルシア地方を旅し、そこの人々と出会うというもの。鍛冶屋のペペとその家族、ギター作りのアルフォンソ、トンネル掘りのマヌエルなどに出会います。A子を演じる中尾幸世さんは俳優ではない普通の人です。他の人たちもすべて普通の人。俳優が出たら臭すぎて見れたものではなくなります。
テーマ曲になっているロドリーゴの「ある貴紳のための幻想曲『ビリャーノとリチェルカーレ』」がいい。この音楽の開放感がアンダルシアの開放的な風景と相まって心地よい余韻が残ります。中尾幸世さんが演じるA子の表情が自然で実にいい。わざとらしく芝居させるのでなく、その存在、表情そのものがドラマを代替しうる、という方法の確信を見て取ることができます。
それ以前の作品と比べ、明らかに『四季・ユートピアノ』で佐々木さんは独自の作劇術を発見し、適用し始めたことがわかります。言い方を変えるとこの4作は作劇がどれも同じ。作劇というよりイメージの連鎖術という方が適切です。
ドラマにはプロット(筋)が仕掛けられて、プロットの良しあしがドラマの良しあしに直結するケースはめずらしくありません。プロットによる作劇を嫌った映像作家は何人もいます。その一人が小津安二郎です。「プロットに退屈した」と語っていた小津はついに他の誰にも作れないと豪語したプロットなしの驚くべき劇映画『麦秋』を作りました。佐々木さんの作品もそれに近い。この方法論ならいくつでも僕は作品が作れると豪語した発言が記憶に残っています。その作劇とは、A子と人の出会い、音楽、川、といったいわばモチーフの連鎖です。
プロットのあるドラマは私個人は臭過ぎるものを感じてとても見る気が起きません。ところが最近、よりによって文楽や歌舞伎のような、思い切りプロット中心のドラマに接し、臭いけど悪くはないと感じられるようになってきました。プロットにも親しんでみようかというのが昨今の心境の変化です。
『アンダルシアの虹』はビデオ撮影でなく、16ミリフィルムで撮影されています。ハイビジョン放送になって、そのデジタルリマスターが実にありがたいものに感じられます。ビデオ撮影であったら、あの映像の美しさは出なかった。制作から30年が経過して、今再び素晴らしい映像の贈り物を受け取ったような幸せな気分になれる秀作でした。
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