どんな村や町にも、それぞれに豊かな歴史や文化が埋もれている。そうした歴史や文化はまた、それぞれに襞の深い風土や自然に抱かれ、それぞれに個性的な表情を刻まれて、そこにある。人と社会、そして自然とが、はるかな遠い時の連なりのなかに織りなしてきた風景を、たとえば原風景と名付けるならば、その原風景はそれぞれの地域が可能性として孕みもつ、大切な地域資源である。
はたして、山形の地に埋もれている原風景は、よく掘り起こされてきたか。いや、原風景とはじつは、それぞれの時代に生きてある人々によって、その時代ごとにくりかえし発見されるものではなかったか。それはつねに、いま・ここで、誰かに発見されることを願いながら、ひっそりと身をひそめ、さりげなく転がっている。原風景はだから、はるかに遠い時間を宿しつつ、いま・ここで見いだされ、あらたに創られてゆくものである。そんな山形の原風景をひとつひとつ発見しなければならない。
風景はたいてい物語とともにある。そして、豊かな物語にやわらかく支えられた風景は、きっと豊饒の輝きに包まれている。それゆえ、あらたな原風景が見いだされ、創られるときには、あらたな物語が生成を遂げねばならない。物語はいつだって、古めかしく、しかも、かぎりなく新鮮なものである。物語は過去を素材としながら、現在に深々と根ざすことで、固有のいのちと力を獲得するからだ。数も知れぬ物語の群れが、過去から現在へ、現在から未来へと連なる時の水底に沈んでいる。ただ、それをいま・ここに浮かび上がらせてやればいい。物語がもうひとつの風景を育む種子となる。
二十一世紀の幕開けを前にして、地域の時代が本格的に始まろうとしている。くりかえすが、それぞれの土地に眠る原風景は、尽きることのない豊かな地域資源の鉱脈である。地域の時代への胎動のなかで、それをいかに地域資源として生かすことができるか。どれだけの物語を産み落とすことができるか。わたしたちは深刻に問われている。地域の時代とはまた、地域の淘汰の時代でもあるからだ。地域の栄枯盛衰がくっきりと、誰の眼にもわかる形で見えてくる。緩慢に進んでゆく没落への道に身をゆだねるわけにはいかない。みずからを深く知る地域こそが、時代のトップランナーになるだろう。
これはささやかな、山形の原風景を掘り起こすための覚え書きである。原風景のいくつかを四季の巡りのなかに辿ることを通して、原風景をいま・ここに立ち上がらせるための物語の可能性を問いかけてみたい。おそらく、そこで求められる物語には、固有の作法と演出が必要とされるはずだ。風景と物語とがつかの間の出会いを果たす。山形の地に埋もれた、いくつもの豊饒なる原風景を求めて―。
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