それでは当時紅花の栽培面積はどれ位であったろうか。
江戸時代にはいると紅花の需要は急に高まり、それに応じて栽培面積が伸びたことは確かであるが、土地の条件があるし、飯米と年貢米を確保しなければならないし、そのうえ紅花栽培には花摘み、花寝せなどに多くの労力を必要とするので、栽培面
積にはおのずから限度があった。
残っている記録をみると、元禄5年(1692)仁田村(寒河江市)の「書上帳」では本畑(もとからの畑地)16町8反7畝2歩のうち、約4町歩程に「例年紅花作り申し候」と書いてあり、新畑(新しくきり開いた畑)35町7反9畝6歩のうち、11町6反歩程が紅花畑であった。とすると、紅花畑の割合は本畑で24%、新畑では32%、本新畑を併せると30%位
であった。
また、寛政年間(1789〜1800)に山口村(天童市)で宮崎代官所に出した報告の下書は、総畑面
積96町9反8歩のうち、「3分5厘程麦作、2分通程紅花作、2分通程たばこ作、2分通
程雑穀作、5厘程度屋敷地」となっている。この場合は1分は10%だから、紅花栽培面
積は約20%となる。
また、文化5年(1808)東根の関山村附近の村々では「たばこ6分通、紅花1分通
」と報告している。
これらを総合してみると、畑の作付品目は適地適作の原則にたち、紅花栽培はその村の事情により10%位
から、最高30%位であったようである。 |