織田信長や白鳥十郎と同じ頃、河北町から真宗の本山に紅花を志納したことを示す貴重な文書が、安楽寺に保存されている。その文書は同寺の門徒から本山に志納(阿弥陀の救済に対する感謝の心を金品の奉納によって表現)した「志納金品受取書」で、昭和53年同寺の古い資料を整理中に、住職の名和師と鈴木勲氏が発見し、両氏によって解読をされたもので、5点のうち1点には次のように書いてある。
(前略)
花一きん 彦衛門
花一きん 新 介
同一きん 藤衛門ない(家内)
わた十八文め 藤衛門
同卅二文め 甚ない
十九文め 九郎と
わた
十九文め 同ない
代卅二文 彦衛門ない
同五拾文 セうけん(将藍)
花一きん さいもん五郎(左衛門)
代五拾文 彦衛門
志納品は代銭3件、縞4件と花4件ずつである。花というのはいうまでもなく「紅花」のことである。
志納者は安楽寺を開いた浄心(俗名名和宗介)のほか岩木村の信者達で、名和宗介というのは有名な名和長年の子孫の一人で、緑あって岩木村に来て隠れ住み、安楽寺を開いた人である。
宛名は「新門様」となっている。新門様というのは、真宗本願時の教如上人のことで、永禄9年(1566)9才の時から、文禄元年(1592)に門跡をつぐまで、27年間「新門」と称していた。新門様宛の志納品の中に、「紅花」があるということは、その頃すでにこの地方で紅花が栽培されていたことを示すものである。
この5点の安楽寺文書は、町内にある紅花関係文書では最も古いもので、町の文化財に指定されている。 |