紅花は朝鮮から伝えられたといっても、単に種子と栽培法だけが入ってきたのではなく、同時に生花から紅餅をつくり、そこから鮮やかな紅を取り、美しい紅染を染めあげる技術をもった人たちもいっしょに渡っていたことであろう。紅花の伝承は新しい染織文化の輸入だったのである。
紅の美しさは当時の貴族たちを魅了したことであろう。今も残っている正倉院御物の「鳥毛立女屏風」の美人や、奈良薬師寺の「吉祥天像」、同法隆寺の金堂壁画の「菩薩像」などいすれも、口紅や頬紅で化粧している。それらは紅花が上流貴族たちの心をとらえ、その生活をいろどったことの現れである。
紅花の美しさに魅了された貴族たちは、早速、衣服の染織を本職とする役所をつくった、大宝元年(701年)に完成した「大宝令」によれば、大蔵省の中の織部司という役職をおき、その下に染戸を設け、宮内省の内染司という役職の下に染師をおいて、染織の仕事に当らせた。
また、平安時代になってから、政治のやり方をまとめた「延喜式」(全50巻)という本がある。これは康保4年(967年)にできた養老律令のこまかいことを定めたもので、第14巻「縫殿寮」という所に、衣服や紅染についてくわしい記録がある。もっとも、その当時の染色には、紅染のほかに紫染や藍染(紺染)もあったが、紅染は貴ばれていたことは確かである。
紅染は我が国に伝えられると間もなく、国の正式な制度の中で実施されたのである。 |