このようにして生産された紅花は、京都や大阪へ移出されました。寛文年間(1661〜73)幕府の命を受けた河村瑞賢の差配などもあって、江戸・大阪への物資の輸送が最上川を利用した酒田出しになると、産物の流れがおのずと関西方面
に移り、京都・大阪には近江商人や伊勢商人が定住し、最上の商人たちも最上店や谷地店と呼ばれるいわば出張店を持つようになりました。当地方の物産である米・紅花・大豆・青苧・漆・まわた・油などを移出した、その返り荷として、関西方面
から呉服地・繰り綿・瀬戸物・塩・砂糖・小間物等が運び込まれました。
特に調度品・絵画・書籍・京人形などの美術工芸品が数多く移入され、現在貴重な文化財として町内に数多く保存されています。
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