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最上紅花の命脈

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(登録日目次: 2002/03/29 更新日: 2019/06/17)


最上紅花の命脈

 紅花は明治になって商品価値を完全に失ったが、何とかして最上紅花を再興したいと考えた山形県の勧業担当者は、明治10年上野公園で開かれた「第1回国内勧業博覧会」に紅花を出品したり、その後、紅花の特産化をねらってその対策をたてたりしたが、時代の趨勢はどうすることもできなかった。

 その間、最上紅花を何とかして保存したいとして、収益を度外視してその栽培を続けてきたのが出羽村(現山形市)の人たちである。それに天皇の御即位 式や、伊勢皇太神宮遷宮式用の調度品の染色には、必ず古来の紅花を用いており、出羽村の関係者はそのつど依頼を受けて用立ててきた。

 先ず、明治41年は皇太神宮の遷宮年に当っており、その前、38年に県農商課を通 して紅花買いあげの通知があった。県では出羽村の関係者に依頼して、何とか必要量 を確保し、その責任を果たすことができた。これを契機にして、もと紅屋をしていた山形市の岩渕店が高擶村(現天童市)の農家に依頼して、伝統のある最上紅花の保存に努力してきた。

 ついで大正8年の明治神宮の造営、昭和3年の天皇御即位式、翌4年皇太神宮の遷宮式の時も、出羽村の人たちは紅花の御用命をうけその大役を果 たしてきた。

 明治維新の時、新政府は「富国強兵」を新しい国づくりの方針とした。それから120年、その間の歴史をふり返ってみるに、「富国強兵」のうち「強兵」は太平洋戦争で見事に失敗したが、その後の経済成長で「富国」のねらいは、ほぼ達成することができた。その間に失なわれた物を探し求めてみたら、その中のひとつに紅花があった。こうして、経済大国の豊かな社会の中で、紅花のもつ底知れぬ あの美しさが、再び人々の心をとらえることになったのである。

出典:『紅花資料館』パンフレット(1994年/河北町教育委員会・河北町紅花資料館)
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