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満地朱をそそぐ

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(登録日目次: 2002/03/29 更新日: 2019/06/17)


満地朱をそそぐ

 天明8年(1788)幕府の巡見使に随行してきた地理学者の古川古松軒は、6月16日(太陽暦7月19日)上山から長谷堂村に出る途中、赤羽毛峠から村山盆地を見おろした時の印象を、著書「東遊雑記」に次のように書いている。
 この頂きより山形の郷中眼下に見ゆ。原野大いに開けおよそ十万石もあらんと覚しき所、畳を敷きたる如き田所なり。この節紅花盛りにて、満地朱をそそぎたる如く、うつくしきこと何にたとぇん方なし。かようの土地は上方・中国・西国にいまだ見当らず。誠に勝れたる風土なり。

巡見使というのは、幕府が必要に応じて諸国の実情を把握するため、全国を8地区に分け3人1組にして派遣したもので、そのはかに多くの随行者があった。この巡見使一行が山形に来た時は紅花の最盛期で、満面と咲きはこった紅花を見て、古松軒は「他国にいまだ見当らず」と書き記したのである。紅花は決して「朱」ではないが、一面に咲き揃った紅花は、古松軒に強い印象を与えたのであろう。

 最上紅花の主産地は最上川沿いの肥沃な平地で、南は上山を限界とし、その北はL山形一天童一谷地と続き、西は寒河江、北は東根附近が限界であった。紅花には鋭いトゲがあり、花をつむには朝霧があるうちでないといけないので、朝霧の立ちやすい最上川沿岸が、紅花の生産に適していたのであろうか。

 この巡見使一行は山形・天童を通り、6月19日には谷地に来て、大町の田宮五郎右衛門・柴田弥右衛門、工藤小路の和田太兵衛の三軒に分宿している。

出典:『紅花資料館』パンフレット(1994年/河北町教育委員会・河北町紅花資料館)
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