この資料館は、近郷きっての富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡です。屋敷の総面積は約80aでかっては土蔵が6棟、板倉が7棟もありましたが、老朽化が甚だしく、母屋をはじめ多くの建物が整理され解体されてしまいました。この屋敷には武器や生活用品および古文書など5,000点を保存しています。昭和57年にこれらの寄贈を受けた町が、漸次整備修復を加え、昭和59年5月に「紅花資料館」として開館したものです。
掘米家は、元禄の頃から農地の集積を行い、文政年間から明治期まで名主や戸長を勤めた家柄です。その間、米・筈睾・紅花の集荷出荷などによって財をなしてきました。紅花は、文化年間(1804〜1818)から精力的に取り扱い、町内でも指折りの豪商に成長しました。蓄積された財貨は、農地の開拓や金融に向けられ、大名貸しも行っていたと考えられます。伊達藩白石城主や庄内藩酒井公の拝領品が保存されていることからも推察できます。幕末期における資産の概要は農地が60町歩(60ha)・山林が100町歩(100ha)・貸付金が8,500両・奉公人20名・小作人200名で、本町内では上位の豪農豪商でした。
掘米家の著名な業績として、幕末期の農兵組織への支援と実践活動が上げられます。世相が混沌としてきた文久3年、幕府は治安の維持を目的に、各幕領・私領に対し、農兵取り立てを命じました。この命令を受けた6代目堀米四郎兵衛は率先垂範して農兵の組織立てをし、東北で最高の水準にまで高めました。農兵の編成に関しては一部に反対意見があり、その組織化にはどの農兵頭も苦労しました。堀米四郎兵衛則勝は、西川町吉川の新山神社から由緒譲りになった朱印状を奉安するために、文久3年に御朱印蔵を建立しました。朱印状の保有は将軍の庇護を意味したもので、農兵の取り立てには好都合であり、親類や小作人で167名の農兵を編成し、時折調練を行い、非常時に備えていたのです。この農兵隊があったため、この地域には百姓一揆や打ちこわしが一件もなかったといわれています。
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