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オープンデータうえだby長野大学前川ゼミ

岩櫃城址[2015-12/23]

カテゴリ: 真田一族の史跡 地域: 群馬県
(登録日: 2016/02/12 更新日: 2017/01/29)


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記録日: 2015/12/00

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記録日: 2015/12/00

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記録日: 2015/12/00

岩櫃城由来記

 吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。

 城郭の規模は、1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、後ろに甲斐の岩櫃城、駿河の九能尻と並び、武田領内の三名城と称されました。

 その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重鎮真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。

 こうして岩櫃城は武田氏の手に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正二年(1574)に隆行が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、昌幸の長男信幸が相続しました。

 その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたと言われています。天正十八年(1590)北条氏の滅亡により、信幸初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重鎮出浦対馬守を城代としました。

 そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康他発した一国一城令(慶長20年(1615))により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。

                                      東吾妻町観光協会
 

竪堀


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記録日: 2015/12/00

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記録日: 2015/12/00

空堀の一種で、山の斜面に等高線に対して直角に掘られた空堀。敵が山腹を横に移動するのを防いだり、敵が登ってくるのを防ぐ目的がある。竪堀が連続的に並んでいるものは畝状竪堀と呼ばれる。岐阜県では飛騨地方や越前朝倉氏との折衝地点である郡上地域で良好な竪堀を多く見ることができる。
 

櫓台


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記録日: 2015/12/00

主郭の中では一段高くなっている場所で、幅12m、高さ2.5mとなっている。
周囲を観察する櫓台と考えられ、ここから周囲の展望・状況を確認し城内外に指揮連絡系統を結んだとされる。
 

腰曲輪


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南枡形虎口と二の丸から本丸に上る通路で本丸南面を守る郭。
 

その他の写真

(21件)
01 岩櫃山登山コース説明1 02 岩櫃山登山コース説明2 03 岩櫃城址説明 04 岩櫃山登山コース道中1
05 岩櫃山登山コース道中2 06 岩櫃山登山コース道中3 07 岩櫃山登山コース道中4 08 岩櫃山登山コース道中5
09 岩櫃山登山コース道中6 10 岩櫃山登山コース道中7 11 岩櫃山登山コース道中8 12 岩櫃山登山コース道中9
13 岩櫃山登山コース道中10 14 岩櫃山登山コース道中11 15 岩櫃山登山コース道中12 16 岩櫃山登山コース道中13
17 岩櫃山登山コース道中14 18 岩櫃山登山コース道中15 19 岩櫃城址付近 20 岩櫃城址近くの休憩所
21 岩櫃城址近くの休憩所の内部

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