三山神社に関連するので簡潔に記す。
【名工 高山一門】
作品の所在 町内 摂社三山神社(旧日月寺) 向拝 虹梁彫刻 ・・・安政年中(1854〜1859) 東泉寺(間沢)向拝 虹梁彫刻 大沼神社 奥の院(長沼)向拝 虹梁彫刻 三宝荒神社(沼山)奉納 大天狗面
町外 紅花資料館(河北町 旧堀米四郎兵エ邸)御朱印庫正面の彫刻 大荒沢不動堂(米沢市)欄門各間彫刻 黄金山神社(宮城県金華山山頂)本殿両扉 昇龍、降龍の彫刻・・・専蔵 貞泉寺(高畠町)欄間 中国 二十四孝・・・文五郎 大本山総持寺祖院大祖堂(石川県門前町)欄間 開祖禅師誕生諸国行脚透彫 ・・・富十親子
【高山文五郎】 文五郎は西川町沼山田代の、荒木慶蔵家(現当主荒木幸一)の生まれと云われ、飛騨高山で修行したと伝え聞く。
幕末、大江町左沢に「慶斎」(仏師 林治郎兵衛1854-1920のことか)という名手として聞こえた彫師がおり、文五郎は、この慶斎に師事し、希代の才能があった為に習得が早く、その技法もまた飛躍的に進み、安政年中に岩根沢日月寺の虹梁(波に龍、司馬温公)や沢畑の堀米家朱印蔵の諸彫刻を成し遂げた。後年河北町谷地に転居する。惜しむらくは明治16年世を去っている。
【高山 専蔵】 河北町谷地に生を受ける。文五郎の子専蔵(号 吟月)は彫刻の技をより修練、また、慶斎等の伝授をうけ、技芸大いに進み、父を凌ぐ名工となり、かの金華山神社本殿の両扉に双龍の彫刻を残している。又、岩手県陸前高田にある閑董院の彫刻も専蔵の手によるとされる。町内では沼山龍源寺開山堂にある「松の一匹龍」が有名である。 刀法深く、技神の域に入り、専蔵の技は妙技と称された。専蔵は大正10年に68歳で没している。
【高山 富十】 河北町谷地に生を受ける。専蔵の弟富十ははやくから、父、兄の刀法を習得し、熟練を重ねて父兄に劣らぬ名工となった。明治40年頃、谷地曹洞宗定林寺授戒会の折、導師として大本山総持寺より「石川素童禅師」が来られ、寺内の彫刻の妙技に大変驚き、懇望して、総持寺に伴い、同寺の彫刻の任に当たらせたという。時あたかも、総持寺は横浜鶴見への本山移転による堂塔彫刻の途中であり、この妙手によって彫飾を施さしめたいという念願からであった。 総持寺伽藍の彫装は実に八ヵ年にも及び、富十はその妙技を存分に発揮し大正4年神奈川県鶴見に没したとされる。この間、鶴見総持寺での仕事の他に、火災にあった能登の総持寺祖院の復興にも関わったと思われる節があり、詳細については不明であるが、富十親子の神技と称される「開祖瑩山禅師一代記」が能登総持寺祖院(石川県鳳至郡門前町)大祖堂欄間に残っている。
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