勝鬨の渡し
所在地 中央区築地六丁目二〇番地 明治二十五年(一八九二)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。 明治三十八年(一九〇五)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋區祝捷會挙行之日建立 京橋區同志會」と陰刻されています。 設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約一五〇メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝ちどき一・三丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。 勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯ととして発展する基となりました。 大正十二年(一九二三)年の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝ち鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和十五年(一九四〇)六月、勝ち鬨橋の開通とともに廃止されていました。 勝ち鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
平成一六年三月
中央区教育委員会
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