カール・ドライヤー監督の映画『裁かるゝジャンヌ』が表紙にあしらわれた浅沼圭司著『映画美学入門』。何ともこの苦難のイメージが権威に押しつぶされる社会の苦悩の表象のように重なって見えてきます。
映画は芸術であり、学問的にはその研究は美学になる。一体誰がそんなことを主張し権威づけしてきたのか。美学者でもあった浅沼圭司さんの著書『映画美学入門』を自炊し、その本文や表紙の装丁が眼前に現れてくると、映画の美学は何であるか以前の問題として、まずそのことが先に意識化されてきます。
率直な感想。浅沼圭司さんが映画を学問の対象として美学における映画学を提唱されてきたことに、変わりゆく社会の全時代の価値観、社会状況がはしなくも端的に現れているということを第一に感じます。
映画が学問の対象として社会的に認知されていないことを関係者は課題として捉え、映画がいかに芸術であるか、美学の対象であるかを証明し啓発するため、先人たちは不断の努力を重ねてきました。グイド・アリスタルコ著『映画理論史』(1962)はそれを体系化した労作的研究書でした。浅沼さんの『映画美学入門』が1963年に出版されたことも注目すべき事実です。その当時、映画が芸術であることが見向きもされなかった時代、芸術性と美学を啓発しなければならなかった当時の状況がよく見えてきます。
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