千姫と化粧櫓
千姫は徳川二代将軍秀忠の姫君に生まれ、政略によって豊臣秀頼に嫁したが、大阪落城の際に救い出され、のち本多忠政の子忠刻に再嫁した。 元和三年忠政が伊勢桑名から姫路十五万石の城主となったとき、忠刻も線姫の化粧料として部屋住みのまま十万石を与えられ、姫路に移り住んだ。 忠刻と千姫の居館は、西の丸内に本館として中書丸を、霧の門内に下屋敷として武蔵御殿をそれぞれ築き住んだ。 これらの建物は多く豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取りこわした用材を移して建てたもので、桃山時代の立派な書院造りの建物であった。 千姫は、天満天神を信仰し、姫路へ来てからは、西方の丘男山にこれを祀り、毎朝西の丸の長局の廊下から参拝した。このとき、この化粧櫓を休息所として利用した。 忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから相次いで勝姫(のち池田光政室)、幸千代の二児をもうけ平和な日々を送ったが、長続きせず、幸千代は三才で早逝、忠刻も寛永三年三十一才で世を去った。 千姫は、同年落飾して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を発って徳川家に帰った。 この化粧櫓は、中書丸や、武蔵御殿がないいま、わずかに千姫の面影を偲ぶただひとつの建物である。
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