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ミッチーのほぼ日記

知識消費型社会の権威の影響

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(登録日: 2024/01/26 更新日: 2024/02/22)


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映画は芸術であり美学である


カール・ドライヤー監督の映画『裁かるゝジャンヌ』が表紙にあしらわれた浅沼圭司著『映画美学入門』。何ともこの苦難のイメージが権威に押しつぶされる社会の苦悩の表象のように重なって見えてきます。

映画は芸術であり、学問的にはその研究は美学になる。一体誰がそんなことを主張し権威づけしてきたのか。美学者でもあった浅沼圭司さんの著書『映画美学入門』を自炊し、その本文や表紙の装丁が眼前に現れてくると、映画の美学は何であるか以前の問題として、まずそのことが先に意識化されてきます。

率直な感想。浅沼圭司さんが映画を学問の対象として美学における映画学を提唱されてきたことに、変わりゆく社会の全時代の価値観、社会状況がはしなくも端的に現れているということを第一に感じます。

映画が学問の対象として社会的に認知されていないことを関係者は課題として捉え、映画がいかに芸術であるか、美学の対象であるかを証明し啓発するため、先人たちは不断の努力を重ねてきました。グイド・アリスタルコ著『映画理論史』(1962)はそれを体系化した労作的研究書でした。浅沼さんの『映画美学入門』が1963年に出版されたことも注目すべき事実です。その当時、映画が芸術であることが見向きもされなかった時代、芸術性と美学を啓発しなければならなかった当時の状況がよく見えてきます。
 

見直す方がよいかも、という視点


今振り返ってみると、学術世界の権威が強かった時代、その世界に映画を参入させていかなければならなかった弱小の分野が、映画美学観を必要としたということではなかったかと思います。

うがった見方をすれば、美学的知見を映画に適用することにより、そこに仲間入りしようとしたスノッブではないかとの見方ができます。私にはそう見えます。

本来的に映画は、美学という狭い視座からではなく、多様な要素が包摂された多軸的な世界、旧来の芸術に対して芸術で包摂してはいけない、旧来の規範から外れたメディアです。映画と並行してテレビ放送、ビデオ映像が主流の時代となり、さらにはコンピュータ、デジタル系メディアが普及し、映画も含めテレビ放送やビデオも時代遅れのものとなりつつあるこの時代において、「映画」をどう捉えるとよいかが問い直されています。もうこの時代に及んで美学の権威におもねる必要はないであろう、と思います。浅沼さんの著作からは、改めて私たちに知識消費型社会(知識体系の権威が上位に君臨するヒエラルキー構造)から知識循環型社会への移行、という問題がいみじくも可視化されてきました。
 
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