名勝 猿橋
昭和七年三月二十五日指定
猿橋架橋の始期については定かではないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃(六〇〇年頃)百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)、志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。 史実の中では、文明十九年(一四八六)二月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して、詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。 応永三十三年(一四二六)武田信長と足利持氏、大永四年(一五二四)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。 江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて九回の架け替えと、十数回に及ぶ修理が行われてきました。 この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。 昭和七年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和九年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。 今回の架け替えは、嘉永四年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。昭和五十八年着工、昭和五十九年八月完成。総工費三億八千三百万円であります。
橋の長さ 三〇・九メートル、橋の幅 3.3メートル、橋より水際まで三〇メートルです。
大月市教育委員会 (この説明文は、上記の説明看板に記載されているものです。)
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