第四回 甲府市歴史公園 市民現場見学会
■日時:平成18年10月15日午後1時30分〜2時30分 ■場所:現地 ■主催:甲府市教育委員会
<この第四回見学会のリポートでは、第一回、第二回、第三回見学会で説明された内容については省略する。>
見学会の様子
1. 甲府駅周辺整備課長・茂手木様の挨拶 7月から毎月40名前後の方が参加下さっている歴史公園現場見学会である。今月は漆喰の見学会を開催します。
2. 甲府城の歴史について教育委員会・伊東主任より説明 皆さん、お若い頃歴史の勉強をなさったと思いますが、その時江戸時代の始まりは関ヶ原の戦い(1600年)であり、中世から近世へ移り変わった時と習ったと思います。常識的にもこのように言われています。配付資料の「甲府城跡山手門跡の歴史」(http://www.mmdb.net/usr/digiken/kofuyamate/page/A0007.html)の年表を御覧下さい。 江戸時代が始まる前は織田・豊富が全国を支配していました。本能寺の変(天正10年西暦1582年6月)で明智光秀が織田を倒し、その後明智を討ったのが豊臣秀吉、その後出て来るのが徳川家康です。 この天正10年は武田が滅びる時ですが、滅ぶと同時に徳川家康が甲府に来ています(7月)。家康が甲府に来たのはまだ江戸時代より前ということです。 甲府城は近世の城ですが、お手元の歴史概要に書いてあるように「徳川家康はそれまでの武田氏の館が手狭であったため、一条小山への城郭建設に着手したとされ」、家康は江戸時代前にここに城を造るぞと言い、それは武田が滅んですぐの時だったということです。この点を頭の隅に入れておいて下さい。「武田氏の館が手狭であった」ということはどういうことかと言うと、家康は武田の館に一時住もうとしたということがうかがわれる訳です。 ちょっと時代が前に行きます。武田の館は今武田神社があるところですが、あの堀に囲まれた大きな部分 の西方に藤村記念館があります。その南方の消防署やかぶとやさんという土産物屋さんがあるところ、あそこの一画は堀に囲まれています。今でも西方にいくと堀の跡が見えます。どうも家康は今ある神社の南方のその一画・梅翁曲輪に住み始めたのではないかと言われています。 慶應4年(1868)、明治元年ですが、政府軍が甲府城に無血入城し、軍の所有となっていわゆる幕府の支配が終わり、世の中は明治時代になっていきます。大体300年間弱、甲府城は、多少火事などもありましたが、ここに存在していたわけです。 その中でも特に、柳沢吉保吉里親子の時代(1704〜1724)に最も甲府として栄え、華やかな時代を迎えました。本には「これぞ甲府の花盛りなり」と書かれています。 ここで大事なことは、甲府城は江戸時代になってから造られたものではなく、江戸時代になる前に造り始められていたということ、出来上がったのが概ね1594年で江戸時代になる6年前であるということ、18世紀の初めの柳沢親子の時代に最も華やかな時代を迎えるが、1868年に政府軍が入って城としての機能がなくなった、これが大方の流れです。 ここで「楽只堂年録」の説明(絵図が表示出来ないので省略)。築城当時の三分の二くらいは開発によって取り壊されています。資料の中には、土地を売却した資金で中学校などの施設を作ったとあります。 次に城下町の説明をします。柳沢の時代の城下町、つまり家臣を住まわせたり、商工業に携わる人達の住まわせていた地域ーいわゆる城下町として囲われていた地域はどの辺になるかというと、南は平和通りをまっすぐ下りた相生の歩道橋から、北が武田通りから150mくらい行ったところくらいまでです。そこに水路跡がありまして、その水路が当時の三の堀にあたります。東は愛宕山の英和の坂の下のところから西が相川のところまでです。山梨病院の東に朝日公園があります。御金蔵稲荷を移動させたと言われている所ですが、その朝日公園のところに堀があり、そこに城内に入る門が置かれていたということです。 城下を歩いてみると面白いことに気が付きます。城下を北から南まででも西から東まででも構いませんが、歩くと概ね30分で行き来出来ます。これは人に聞いた話ですが、江戸城の大久保彦左衛門が住んだ屋敷から桜田門に入るまでが30分にあたるそうです。お城を中心に30分の範囲に有名な武家や城下を配置したと想定出来ます。それが甲府でも通用することになります。また、甲府城に使われているたくさんの石は山から切り出した加工していない石を使っていますが、その石を掘り出した場所は甲府城の北の道を東に上り英和の通りにぶつかった所の奥にある元裁判所長官官舎で見ることが出来ます。そこの庭から東に大きな穴や段差があり、石が露出しています。そこで石を掘り出して甲府城に持ってきたと伝えられています。お城のすぐ近くに石切場があるということで、地の利にめぐまれていたと思います。甲府の山には安山岩があり、石垣に非常に適しています。江戸城では船で全国の大名から石を寄せ集めていましたが、伊豆の熱海の海岸ではずくがなくて運ぶのをやめた石がどんとおいてあったりします。以上、どうもありがとうございました。 3. 山手門建築担当係長・輿石様、土木担当係長・石川様の案内で現場見学 歴史公園の工事の概要について説明させてもらいます。平成17年6月より工事が始まり工期は来年の3月15日までということになっています。昨年いっぱいは石垣積み、今年は木工事つまり本体の工事を行っています。現在の進捗率78%です。現在は土塀の左官さんの工事や渡櫓の屋根工事をやっています。工程は予定通りです。 今日の資料「山手渡櫓門(やまのてわたりやぐらもん)の左官仕上工事の概要」の説明をします。写真は土塀の小斑直しの状況です。(壁を作る過程は次のURLを参照 : http://www.mmdb.net/usr/digiken/kofuyamate/page/A0008.html) 漆喰(しっくい)は石灰石を粉末にして焼いた消石灰にツノマタやギンナンソウという海藻を煮込んで粘着力をつけた状態で混ぜたもの。これを壁に塗ります。どうして漆喰を壁に塗るのかというと、当時は火災による消失が城主に一番恐れられており、屋根は瓦で葺き、壁は漆喰でくるんで防火対策にすること、また、漆喰が屋根の黒に対して白いのでコントラストが美しいこと、漆喰が時間の経過と共に堅くなり、中の土壁を風雨から守ることが考えられます。 この公園は「楽只堂年録」を元にすべて復元されています。堀の幅、石垣の高さも記載されているので、それに合わせて復元されています。石積みにある白いテープの下が400年前の石積みで、その上に同じ種類の石を使ってつないでいます。掘った所から出て来た石も積み直しをしています。石は貴石安山岩で、昔は愛宕町から持って来たそうですが、今回の工事については敷島から石を採取しています。見つかった石垣の遺構の上に石を積んでいるので、位置的にも当時と同じです。工事には全部で2000トンの石を使っています。大きい石(幅2m以上のもの)は鏡石(飾り)とし、小さい石は詰め石として役物(しっかり噛ませる)になっているものと飾り石があります。 山手渡櫓門の特徴は正面に2本のの鏡柱(ケヤキ材)があり、その後ろの方に控え柱が2本それぞれあることです。全体ではカタカタのコの形で、これは高麗門という形式です。現在は砂漆喰の状況です。最後に漆喰を塗って完成します。門の丸瓦には三つ巴と十六の連珠の紋があります。これは甲府城発掘の時に現れた瓦と山手渡櫓門発掘の時に現れた瓦の紋と同じだったので、甲府城と山手渡櫓門の紋は同じだったろうということで、稲荷櫓と同じ紋を使っています。瓦は本瓦葺きです。 山手渡櫓門に敵が入ってきても、この内側のますの中に来たところで土壁にある四角や三角や丸の穴から鉄砲や矢で狙い敵兵を討つようになっています。隠れるところがないのが良い点。「渡」というのは右側と左側に石垣があり、その上を梁が渡っているから「渡」といいます。櫓は普段は武器庫または食料庫として使われていましたが、いざ敵が攻めてくると砦になってお城を守りました。 歴史公園を作っている材料はほとんど国内産(県内産だけ調達するのは難しい)のものを使っています。ケヤキは肌触りが良く木目がきれいなので、見えるところにはケヤキ材を使っています。鏡柱は樹齢約500年のものです。梁材(2本・樹齢千年近く・家一軒分のお値段)だけは14mあるのでカナダから輸入したものです。内部にはヒノキ、スギ、クリ、などを木材の特徴によって使っています。地震の被害も考えて、基礎にはアンカーボルトを使って強固にしています。見えるところには和釘を使い、見えないところにはステンレスや銅の釘を使っています。
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