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北海道開拓スピリットと甲府中学校長大島正健

大島正健略伝

カテゴリ: 大島正健略伝 地域: どこか
(登録日: 2006/12/01 更新日: 2017/02/05)

 大島正健は、安政6年(1859) 7月15日 相模国高座郡中新田村 (現在の神奈川県海老名市) 、名字帯刀を許された名主の家に生まれた。父彦三郎正博・母縫。幼名は金太郎と呼ばれた。
 明治7年(1874)1月、14歳で上京し、主に華族の子弟を教育する私立英語学校であった逢坂学校に入学した。在学一年で学力が進み、この学校に満足できなくなった大島は、明治8年神田一ツ橋にあった官立東京英語学校に合格し、第6級に編入された。この学校を卒業すると、後の東京大学である開成学校へ進学する仕組みになっていた。

 このころ、北海道の行政、開拓を司っていた開拓使では、札幌に開校した札幌学校を、北海道開拓の人材を育成する高等農業教育機関として格上げし、第一期生を募集することとなった。文部省は、この学生募集広告を東京英語学校、開成学校に掲示し、これを見た大島はただちに応募。試験は明治9年7月、北海道開拓使東京支所で行われた。大島は、日本政府に招聘された米国人ウイリアム・S・クラークの口頭試問に合格。他の合格者10人とともに、御用船玄武丸で北海道に渡った。
 当時、札幌の市中の人口は約3千人ほどで、誕生間もない小さな街だった。農学校の発足は、札幌が日本の近代文化の発信地の一つとして発展していく礎となった。

 クラークは、その当時マサチューセッツ農科大学学長であったが、明治9年3月、たまたま日本政府の指令で、札幌農学校の創設者を探していた駐米特命全権公使吉田清成の依頼を受けた。開拓にかける日本政府の企図に共鳴したクラークは、吉田公使の招聘に応じ、新校の教育経営に責任を負うことを快諾した。しかし、マサチューセッツ農科大学の学長という重責を預かる身である。学長を辞職して、東洋の小国に赴任することもできない。そこで、クラークは、学長在職のまま、一年間の休暇を取ることとし、信頼する部下であったホイラー、ペンハローを伴い、ただちに日本に渡ってきたのだった。
 同年8月、1期生を迎えて農学校の開校式が行われた。開拓使長官黒田清隆の式辞、クラーク教頭(実質の校長)の演説があり、生徒への激励と期待が述べられた。札幌農学校の名称は9月に正式決定した。日本における高等教育機関としても、最も早く設置された官立学校の一つであった。

 クラークと日本政府との契約は明治9年4月から一年間であったため、大島ら一期生が、クラークから直接に教育指導を受けたのは、わずか8ヶ月であった。
 クラークの教えは、人格教育を基本としていた。着任早々「自分が諸君に臨む鉄則はただ一語に尽きる“Be gentleman!”これだけである」と宣言したほか、学生の徳育に関し、まず第一に毎日聖書の講義を行った。第二に日本の学生が堕落して、その身を誤ることが多い最大の原因は飲酒・喫煙の弊にあるとして、職員生徒に生涯の禁酒禁煙の誓約をさせた。さらに、明治10年3月、札幌農学校を離任するにあたって、「イエスを信ずる者の誓約」という一文を起草してクラーク自ら署名し、キリスト教信仰に入ると決心をした学生たちの署名を求めた。
 これに対してクラークの薫陶を受けた第一期生16名全員が署名し、事実上のキリスト教徒となった。一期生の結束により、第二期生も「イエスを信ずる者の誓約」の署名に応じた。この2期生のなかから内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾等キリスト教を信仰する優れた指導者が輩出した。クラークの教えは、徳をもって多感な一期生たちの心に深い感化を与えたのであった。

 日本政府との契約期限が満了したクラークは、まだ春浅い明治10年4月16日、馬で札幌を出発し、室蘭港から米国への帰途についた。その朝、別れを惜しんだ職員学生一同は、馬で恩師のあとを追い、千歳街道を札幌の南およそ24kmの島松駅まで進んだ。ここでクラークと一行は、駅逓の家で最後の別れのひとときを過ごした。

 そのときの様子を記録したのは、大島であった。その記録「クラーク博士と弟子たち」によると、

 「どうか一枚の端書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないよう
 に。ではいよいよ御別れじゃ、元気に暮らせよ。」
 といわれて生徒と1人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、
  “Boys be ambitious”
 と叫ぶなり長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された。

    懐クラーク先生
  青年奮起立功名    馬上遺言籠熱誠
  別路春寒島松駅    一鞭直蹴雪泥行

 とは、うすれ行く恩師のうしろ影を見送って感無量であった私の即吟であるが、
 今では全国誰知らぬ者のないこの句は短いけれども意は実に深いのである。
 青年よ汝等は常に大志を抱き、国家有用の材たれよと先生は青少年に呼びかけ
 られたのである。心なき人々が「青年よ野心家たれと叫んだクラークという男
 は怪しからぬ人間だ」などと申すのを時折り耳にするが、これは誤訳もはなは
 だしいのであって、先生はすべからく大抱負をいだき未来に夢をもてというこ
 とを訓えられたのである。
 
 クラークが最後に残したひとことは、大島が即吟による漢詩として書き留めたことによって、後にクラークの名言として、世紀を超えて日本の若者の心に記憶されることとなった。つまり、大島が世に広くクラークの教えを語り継ぐことがなければ、クラークの名教育者としての存在が日本に知られることもなかったことになるのである。

 この教えに深く感化された大島は、それ以後、クラークが生徒らに示した鉄則である “Be gentleman”、別れの教え“Boys be ambitious”を強く意識し、宗教家・教育者としての人生を送ることとなった。
 では、“Boys be ambitious”の意味を、大島はどう解釈したのか。
 漢詩「懐クラーク先生」では、大島はこのメッセージを最初「青年奮起して功名を立てよ」と、やや世俗的に受け止めていた。しかし、晩年の述懐でも明らかなように、大島の理解は「先生はすべからく大抱負をいだき未来に夢をもてということを訓えられたのである」と大きく転回する。つまり、クラークの「少年よ大志を抱け」は、クラークの感化を受けた大島の人格の深まりがもたらした、生涯をかけた名訳であったと言える。

 大島は札幌農学校にあって、クラークの「イエスを信ずる者の誓約」を固く守った。学内で率先して信仰の道を進み、「ミッショナリー・モンク」(伝道僧)の異名をとるほどとなった。特に、上州高崎藩家老の子として武家に生まれ、札幌農学校に入学するまでは国粋主義者であった内村鑑三(第2期生)のキリスト者化は、寄宿舎でしつこく食い下がる大島の説話の影響によると言われる。

 大島は、明治13年(1880) 7月 札幌農学校を卒業後、開拓使御用係に採用され、ただちに札幌農学校予科教員として配属された。その後の生涯を教育者としての道を歩むこととなった。翌14年には札幌で平野千代子と結婚。一方で、キリスト信仰はますます深まり、明治19年(1886年)札幌独立キリスト教会より牧師に任ぜられるほどとなった。
 その後、同志社普通学校教授(明治26年)、私立奈良中学校校長(明治29年)を経て、明治34年3月、山梨県知事加藤平四郎の招聘を受けて、県立山梨県中学校の校長として着任した。(県中学校は大島在任中の明治39年6月、甲府中学校と改称)

 「山梨県立第一高校創立120周年記念誌」によると、加藤知事は、前年の明治33年4月、甲府舞鶴城跡地に新築されたばかりの県中学校の校長が不在となっていたため、友人の東京麻布中学校校長江原素六に、当時の県中学は、生徒の気質が荒く、騒動が絶えないこともあって、鹿児島、宮崎とともに「天下の3難中学」と言われており、「普通の校長では治まるまいから、立派な人物を迎えたい」と相談した。江原が推薦したのが奈良の私立学校に勤務していた大島だった。同校が3月で廃校になることもあって、加藤知事は直接大島に交渉にあたった。大島は、学校教育に官民がみだりに口出ししないことを約束するなら引き受けようとの返事だった。

 伝説によると、新任式では、全校500人の生徒が講堂の床を踏み鳴らして騒然となったので、大島校長は 「静かにしろ、この山猿ども ! 」 と一喝して静めたことになっているが、記念誌では「クラーク博士仕込みのジェントルマンシップとキリスト教に裏打ちされた共鳴的な教育観で知られた大島校長のこと、(前任の)幣原校長の着任の際と混同した誤伝と思われる。」と正している。前任の幣原校長の着任に際しては、生徒が床を踏みならしたり、奇声を発して、手のつけられない騒ぎをしたので、幣原は「黙れ」と一喝し、静まらせた。その後、校内の騒動は起こらず、校風が締まったのだという。それが、いつのころからか、後任者大島の徳育の成果として、混同されるようになったというのが真相らしい。
 
 大島は甲府の地で、クラークの遺訓を生徒らに伝えようとした。着任早々、大島が定めた校則は札幌農学校にならい、“Be gentleman!”というたった一言だけだった。他の些末な「規則・心得」は撤廃し、そして“Boys be ambitious”を、生徒への希望のメッセージとして語り伝え、禁酒主義を教えた。こうして、クラーク精神による教育は札幌から遠く離れた甲府城址において大きく花開くこととなったのである。

 「120周年記念誌」は、クラーク譲りの大島校長の徳育について、以下のように伝えている。

  成績不振の知事の子どもを落第させた逸話。明治の元勲・伊藤博文の肖像を
 「不品行の点は師表とするに足らない」として拒絶した話。落第を続けていた
 石橋湛山がその人柄に感化された話。高山樗牛の『滝口入道』を読んでいる生
 徒を視学官が軟弱だと非難するのを、文学史上価値あるものと生徒をかばった
 話。三里も離れたところから通ってくる生徒の家を杖をひいて徒歩で訪ね、第
 一高等学校(現東京大学教養学部)への進学を説いた話…同窓生、旧師の伝える
 在任中のエピソードは枚挙に暇がないほどだ。
  推理小説作家で大脳生理学の医学者だった林髞(木木高太郎)は、『故郷とそ
 の中学』という随筆の中で、自分と同年代の者の中には、中学校で動物のよう
 に扱われた者が多いのに、大島校長の薫陶のしみこんだ甲府中学で、自分が人
 間として扱われたことは幸いだった、と書いている。また、その声望をしたっ
 て神奈川、静岡など近県から、甲府中学を目指す者も少なくなかったとも。

 天下の難中学と言われた生徒たちも、威あって猛(たけ)からずと言われた大島校長の前では、おのずから品行を正したという。それは、札幌農学校で、クラークが徳育で第一期生を感化したのと同様であった。大島は、身長は5尺たらずで、どちらかといえば、ずんぐりしており、広い額、大きな眼、よく通った鼻筋とその下のピンと跳ね上がったヒゲ、話す時も、少々どもりながら静かに諄々(じゅんじゅん)と語り、決して雄弁というのではなかった。温かく穏やかな中にも、謹厳で犯しがたい威厳を感じさせたという。
 また、大島は甲府中で英語教育にも注力し、英文学者野尻抱影を同校に英語教師として招いた。野尻は星の和名もよく研究し、特に「冥王星」の命名者としても知られるが、後に大島の娘婿となった。

 クラークの直弟子である大島らを通じて、クラーク精神の影響を受けた「孫弟子」からは、札幌において新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾らの日本をリードする大人物が現れた。そして、甲府でも「私はクラーク先生の孫弟子」と称した後の総理大臣石橋湛山という大人物が現れた。彼らはクラークと一度も会ったことはないのだが、たった8ヶ月の教育がここまでの成果をもたらしたことは、クラークの人格の偉大さもあろうが、大島ら直弟子の優れた感性のたまものとも言えよう。。

 その石橋は、明治17年(1884)に生まれ、明治28年から同35年甲府中(正しくは県中学)に在学、甲府城址にあった学舎において、大島校長からクラーク精神教育の薫陶を受けた。早稲田大学を卒業後は、東洋経済新報社で、主幹、社長を務め、大正から昭和にかけて民主主義、自主義、平和.主義を貫く論壇の雄として活躍した。
 第2次世界大戦後、政界に人り、大蔵大臣、通産大臣を経て、昭和31(1956)に内閣総理大臣に就任した。翌年、病に倒れ、惜しまれて辞任したが、その後も、中国、ソ連を歴訪して平和外交を展開し、昭和48年(19739)、88歳で死去するまで国際平和活動に力を注いだ。
 石橋の大島、そしてクラークへの敬愛ぶりは広く知られるところであり、県立甲府第一高校創立85周年記念事業として昭和40年10月建立された「大島正健先生彰徳碑」の建立発起人には元内閣総理大臣として石橋湛山も名を連ねていた。現在も同校玄関前に立つ碑板には大島の顔がレリーフで刻まれ、大島がクラークから教えを受け、甲府の若者たちに伝えた“Boys be ambitious”と、大島がクラークとの別れに際して即吟した、自筆の漢詩「懐クラーク先生」が刻まれている。そして、“Boys be ambitious”は、石橋本人が自ら執筆したものだった。
 その石橋と大島校長をめぐる熱い師弟愛が、「百二十周年記念誌」に次のように記されている。

  この年、本校には創立85周年事業として、甲府中学校第7代校長・大島正健
 先生彰徳碑が建立され、除幕式が行われた。彰徳碑建立発起人には湛山翁も名前
 を連ねていた。
  大島校長の顔がレリーフされた碑板には、大島校長が札幌農学校で教えを受け
 クラーク博士の「Boys be Ambtious」と、同校長作で自筆の漢詩「憶クラーク先
 生が刻み込まれ、「Boysbe…」の英文は翁自らが筆を執ったのである。
  この時、湛山翁が、感慨を込めて述べた祝辞のもようは、除幕式に同席した同
 窓生の作家・中村星湖氏(明治38年卒)が綴った回想文で知ることができる。
  ◆
  湛山は黒の背広で杖を片手に壇上に立ち静かに話しはじめた。
  「不名誉なことだが、自分は甲府中学を2度落第した。しかし、そのため大島
 校長の教えを受け、クラーク先生の精神を知ることができ、それまでとは違った
 覚悟と方針を持って中学を卒業し、長い道中を歩んできた」
  あらまし、この辺りまで淡々と語ってきて、校長との出会いを追億しての胸迫
 る感慨のためか、突然絶句した。冒し難い粛然とした空気のなかで、出席者は首
 を垂れて待った。
  「不思議なことです−。実に不思議というよりほかにない」
  湛山はそれだけをつけ加えて壇を降りた。
  ◆
  湛山が、戦前時流におもねず、軍部に屈せず、徹底した自由主義、民主主義、
 平和主義を貫いた硬骨のジャーナリストであり、戦後政界において己れの哲学と
 見識をもち、信念と節操を失わなかった希有のステーツマンであったことは、い
 まや世の常識であるが、その思想と人格の起点と核心をなしたものがクラーク先
 生の直弟子大島校長との運命的な邂逅であったのである。

 その石橋の胸像も平成6年9月、大島正健先生彰徳碑にほど近い甲府一高100周年記念館の玄関に設置された。財団法人・石橋湛山記念財団の設立20周年記念として、石橋翁の胸像三体が製作されることとなり、そのうちの一体が甲府一高同窓会のたっての希望により、母校に贈呈されることとなったのである。
 石橋像が据えられたは、約70メートルの距離を隔てて、ちょうど大島校長彰徳碑が望める位置にある。一世紀という時間を超えて、師弟があたかも互いに見合う位置関係に置かれた。石橋翁の胸像は、まさにふさわしい場所に置かれたと言えよう。

 現在、クラークの“Boys be ambitious” は山梨県立甲府一高の校是の一つとして、大切に継承されている。
 平成15年3月、同校卒業生によって、「山梨県立甲府第一高校 校是掲示額」が製作され、校舎正面玄関に燦然と輝きを放っている。ここに校是掲示額の全文を紹介する。


 賛天地之化育
  宇宙における物質の変化、生物の成育は全て天地自然の力に
 よるものであって、人間はその力を賛助するものである。
                 (出典 「中庸」)
  昭和三年の旧校舎完成時に本校十代校長、江口俊博先生の
 発案で校舎正面に刻まれた言葉である。
  現在も校舎正面に掲げられている。


 荀日新 日日新 又日新
  日々、新たな気持ちや考えを保ち続けて、今日の行いは昨日
 より、明日の行いは今日よりも新しく、善くなるように、たゆ
 まず修養に心がけ努めねばならない。そのような気持ちをもっ
 て学びたい。
                 (出典 「大学」)
  江口校長が旧校舎完成時、屋根に「日新鐘」を掲げた。
 その銘のもとになった句である。


 BOYS BE AMBITIOUS
 若者よ、大いなる志を抱け。

  大事業は大いなる志がなければ達せられない。
 何事にも高き望みを持って、取り組むことが大切である。
 この教えは、札幌農学校でクラーク博士の教えを受けた本校
 七代校長、大島正健先生から伝えられたもので、「いや高き
 のぞみをもちて」と、校歌の中にも唱われている。

 (平成十五年三月 卒業生一同)
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(編集:特定非営利法人地域資料デジタル化研究会、文責:井尻俊之)
※参考文献:「クラーク先生とその弟子たち」(昭和12年 大島正健著、図書刊行会昭和48年復刻版)
「山梨県立甲府一高百二十周年記念誌」

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